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life light

 

 

4月12日 AM 7:00 

雨雲がその厚みと輪郭を失っていくのを眺めている。
風の匂いが変わる前に振り向いた。サソリがいるわ、と彼女が告げたからだ。
声の主の足下を見る。彼女は裸足だった。日の陰った砂の上でその指先がマツヨイグサを踏み、また離れる。彼女が通ったあとの茂みにいびつで浅いくぼみが形を残していく。
埃まみれのコルベットのボンネットフードを開けっ放しにしたまま、わたしは湿った赤砂に残された足跡を数える。三つ。四つ。六つ目のところでちょうど彼女が立ち止まっている。
「刺された?」
「そうならとっくに叫んでるわ」
わたしの言葉にサラ・ブライアントは相変わらず視線を落としたまま、うすい唇の動きだけではっきりと告げる。
ごくちっぽけな丘陵地帯の穏やかな稜線からは、ガードレール越しに遠浅の海が見下ろせた。人家はない。この薄汚くて砂だらけの州道から首が痛くなるまで見渡す限り、どこにも人影がない。こんなど田舎の朝、ゴミだらけの砂丘を裸足でトレッキングをしようなんて酔狂な人間はたぶん彼女とわたし以外には一人だっていない。わたしはゆっくりと伸びをする。
「ゴキブリみたいな小さな奴だった」
視界の中にサラが戻ってくる。左手にぶらさげたサンダルをゆるく振りながら、唇を歪めている。笑ってはいない。
「お嬢様には怖いものなんかないって訳ね」
「サバクサソリにはたいして毒はないもの」
私が眉をひそめたのに気づいたのか、彼女がようやくにやりとした。「うちの祖父さんの書斎に山ほどいたのよ」
「サソリが?」
「昔ね。こんなちいさな水槽で飼ってたの。よく蓋が外れてた。今でもその子孫が屋敷に住みついてるわ」
「気が知れないね」
「あんたがこないだ寝てた部屋にだってまだ出るわよ。メイドがそう言ってた」コンバーチブルの湿ったシートにサンダルを放り込んで髪をかきあげた。そのままの姿勢でわたしを見ている。風の向きがまた変わる。「それで。何の話をしてたかしら」
彼女の言う「何の話」を思い出すのに少し時間がかかる。
アメリカ人の好きな映画は一通りは観たけれど、どうにも楽しめない。
きっかけは忘れたけれど言い出したのはわたしだったし、助手席側の窓が壊れているせいでシートとフロアに水溜まりだらけのコルベットの中で夜の間じゅう二人して喋り続けていたのはそんなことだった。
例えばさ、ゴジラの足に踏みつぶされたり馬鹿でかい津波に押し流されたりして画面から一瞬で消え去るエキストラがいるじゃない、ホラー映画の開始五分で殺されるカップルとか。
アレ見るたびにああ、自分はこの中にいたらきっとこちら側の人間なんだろうなって思うとせつなくなるんだけど。
そう告げた時、ハンドルの前でサラは妙な顔をした。
何しろ彼女のお気に入りはダーティハリー・シリーズだし、ハリー・キャラハンのスミス&ウェッソンの弾倉に何発弾が残ってるかだって、彼女はいつだってお見通しに違いない。
二挺拳銃を振り回し、殺人鬼やらテロリストやら四つ目のエイリアンやらを退治しておまけに世界を救ってしまったりなんかするヒーローの役を手に入れるためには、さて、どうすればいいのだろう。神様が公平にくじを引かせてくれると想像する? それも一つの素敵な解決法には違いない。
何ていうか、出番を待ってる『その他大勢』の一人みたいな気分にならない?
あんたが?
サラは鼻で笑う。笑った後で少し黙る。ベネッサ、あんたがそんなペシミスティックな妄想に囚われてるんだとしたら、それは随分と皮肉な話に聞こえるわ。
わたしはシフトノブの上で遊んでいるサラの指先を握る。
世界はいつだってゆっくりと確実にその姿を変えていく。わたしのささやかな意志などお構いなく。
人間の群れの中には人の顔をした獣が紛れ込んでいる。狼はなんの前触れもなく狩りを始めるけれど、その始まりと終わりはいつもセラードのスコールのように唐突で局地的だ。だから多くの幸せな人間たちは、その存在に気づくことすらないまま一生を終える。
そんなことだ。たったそれだけのことだった。
わたしと彼女はいつもくだらない話ばかりしている。時間は幾らでもあったというのに、いつまでたっても変わることがない。私はボンネットフードを閉める。勢いよく閉め過ぎたせいで、少しだけ指が痛くなる。
「目が覚めたらあなたがいなくなってたらいいのに、って思うことがあるって話」
「じゃあ、ここから消えてあげるからよく見ておくのね」 
彼女はどこにも消えず、太陽はじりじりと高みを目指して昇り始めており、相変わらず海には風の音だけで誰もいない。赤い砂はまだ乾ききってはいなかった。
「ところでさ。目的地はここだったの?」
さあね。朝のまだ薄い光の中でサラが肩をすくめる。
「どこにでも行くよ。あなたの行きたいところならどこでも」
風の温度がほんの少しだけ変わる。
シートに座って砂まみれのブーツをはたいていると、運転席に戻ってきたサラが無言でキーを回した。汚れた素足でアクセルを踏みつける。
眠たげに息を吹き返した銀色のコルベットの後輪が派手に砂埃を跳ね上げた。



4月11日 PM 11:30

どこに着くのか判らない列車に乗って、一晩中窓の外を見ているの。
返事の代わりに、ベネッサがくぐもった声で呟くのが聞こえた。助手席で私のコートをひっかぶり、更にその内側深くへもぐりこもうとしている。眠りこけている彼女の横顔はいつもと少し違う。
信号待ちの交差点には誰もいない。私たち以外には誰も。ソフトトップの上を雨粒が殴り続け、二車線道路の水溜まりが停止信号の光を照り返して、そこいらじゅうがまるで赤いインクをぶちまけたような有様だ。
ボリュームを抑えたままのラジオは、先程から聞き取れないほどのかすかな囁きを繰り返している。
「でね、結局、たどり着いたのは最初に列車に乗った駅だったのよ」
効きすぎるヒーターを調節していると、青になる。左手にはペプシのペットボトル。右手にシフトノブ。一速から二速。三速へ。コルベットのハンドルを人差し指の先でつつきながら私は前だけを見ている。街から郊外へ、そしてその先へとひたすら続く州道は、どのルートを取ったところで間違いなく路面が荒れてくる。ほんの数えるほどしかない街灯が、油を流したように歪んだ窓ガラスの端から端へと、いびつなリズムで切れ切れに流れていく。
「笑えるでしょ。夢を見ているのは分かってるんだけど何故だか目が覚めないの。何やってるんだろうってぼんやり思ったわ。それから」
相も変わらず返事はない。
ぬるいボトルの残りを持て余した。
窓をほんの少しだけ開ける。途端に横殴りに雨と風の音が頬を叩いてくる。前を睨んだまま、できるだけ遠くに腕を伸ばして一気に中身をぶちまけた。ペプシの飛沫が顔に飛んでくる。
窓を閉めた時にはシャツの袖はぐっしょりと濡れ、おまけに手はべたついていた。空のボトルを適当にシートの後ろへ放りこむ。
それから?
まさか起きているとは思わなかったので、助手席で伸びをしている寝ぼけ顔に向かって素直に驚いてみせた。
喉が渇いた、と銀色の前髪に隠れた目がこちらをじろりと見上げる。「何か飲むものは」
「あったわ。ついさっきまでは」
「それからどうなったの」
「なに?」
「話してたでしょ。駅がどうとかって」
「ああ。仕方ないから乗ってたわよ。その列車に」
「うん」
「そうしたら、気づいたら朝になってて、振り向いたらいつのまにかあんたが隣に座ってた」
「わたし? 何で」
「そんなのこっちが聞きたいわよ」
ベネッサがにやにやしながらこちらを見ている。ごめん、これ何の話、サラ。
「だから夢を見たって言ってるでしょ。やっぱり聞いてなかったわね」
ああ、夢ね、夢、とぶつくさ呟きながらベネッサがコートをくしゃくしゃと押しやる。
雨が強くなる。辺りはもう、黒い林と鋭角に切り取られた平屋の建物の影がまばらに流れていくだけで、私は規則的なタイヤノイズにずっと耳をすませている。
「目が覚めたら。一人きりになってるかもって時々思わない?」ベネッサが不意に声をあげる。
「思わないわね」
「今もさ、あなたがいなくなってたらどうしようって思ったら」
「なによ」
「少しぞくぞくした。楽しくて」
「変態ね、あんたは」
夜がもたらしてくれる筈の音は何も聞こえない。ここにあるのは無粋な震動と硬質ガラス、囁いているラジオと唐突で途切れがちな光、ただ過ぎていく雑木林の暗がりだけだ。
「あとどのぐらい」
「四時間ってところかしら」
「…四時間?」
「夜が明けるまでには着くから安心して」
ほんの一瞬だけ妙な表情をしてから、ベネッサは倒したままのシートからバネ仕掛けの勢いで上半身を起こす。半分曇った窓に顔を押しつけている。
抗議のため息とともに、ベネッサが私を振り返った。私はまた前方に視線を戻す。
「気が変わったのよ。こんなに天気も良いことだし」
「ガススタンドがあったら停めてくれる」
「さっき給油したばっかりだから問題はないわ。ちなみに起こしてあげる努力はしたわよ。あんたは寝てた、私は起こすつもりだった、それで十分でしょう」
「生理現象の大問題が、そう遠くない未来に生じそうなんだけど」
「言ってくれたらその辺に停めるわ」
 返事の八割方はあらかた予測がつくものだったので、私はステレオのボリュームを上げる。呑気なレゲエ。土砂降りの田舎道にはうってつけだ。三秒後に諦めてボリュームを落とした。
私は少しだけ眠たくなっている。
先程までと寸分変わらない風景の中を私たちはまだ走り続けている。
雨は繰り返し、飽きもせずにアスファルトを叩き続けているだけだ。ベネッサはずっと外ばかり見ている。一人きりで夢から覚めた瞬間のように、私は何故だか鼻と喉の奥がつんと痛くなってくる。掌で目をこする。
「眠たくなった?」
「いいえ。ちっとも。全く」
「次に目が覚めたら」ベネッサが喉の奥で笑う。少しぼやけている視界の隅でこちらを振り向いた。「あなたはたぶんわたしにこう言うわ、夢だとしたら、いったい全体どうして目が覚めないのかしらって」
「何のこと?」
「どちらにしても、楽しい我が家へ向かってるって訳じゃなさそうね」
ぽつんと呟いた声が私の胸に影を落とした。
「いい子で乗ってればちゃんとおうちへ帰したげるわ。いつかはね」



4月12日 AM 0:15

がくんという揺れとともに目的地に着いた。と思ったのは夢の中でだった。
わたしは薄く目を開ける。
土砂降りの雨の中、コルベットは暗いアスファルトのど真ん中でアイドリングしていた。
滝のように水滴が流れるフロントガラスの向こうから、強く白い照明がこちらを照らしつけている。ヘッドライトをつけっ放しにしたピックアップトラック。逆光。黒っぽい巨大な車体が道をほぼ塞ぐように横づけされている。
見上げると、サラがこちらに目配せしている。何も喋らない。
わたしは頭からコートを引っ被った姿勢のまま、倒したシートにさらに深く身を沈める。
助手席の窓が不意に叩かれた。黒く細長い影がかがみこんで運転席の方を覗いている。もう一度、大きな拳が勢いよく窓を叩く。レインコートのフードの先端がガラスをかすめ、その縁をつたって後からあとから水が流れ落ちる。顔は見えない。
サイドミラーに男の右手が映る。鈍い色をした棒状の何かが一瞬だけ現れ、すぐに影に隠れる。
降りてくんねえかな、姉ちゃん。奇妙に甲高い大声が闇の中から漏れる。フードの隙間に男の目がちらりと見える。それは真っ直ぐにサラを見ている。俺の車がさあ、イカれちまったんだ。手を貸してくれるよな、まさか嫌とは言わないだろ。
ミラーの中で男の右手がゆっくりと振られている。ヘッドライトを反射する金属の塊。
わたしは窓のスイッチにそっと手を置く。サラが何かを言いかける。右手を伸ばしてわたしを遮ろうとしたが、横殴りの雨が車内を襲う方が早かった。刺さるような雨粒を顔全体に感じながら、わたしは跳ね起きざまに右腕を伸ばす。
男のシャツの首を掴むとそのまま車内に胸まで引きずり込んだ。半開きのパワーウインドウのスイッチをもういちど押し上げる。焼けつく寸前のモーターの軋り。
右手にごつごつと触れる喉仏に指をねじ込ませながら、窓ガラスに挟まれてもがく髭だらけの顎を思い切り左の掌で突き上げた。男の下唇に前歯が刺さる感触。親指の付け根でじっくりと感じ取る。
髭面が血と涎の混じった泡を飛ばし、右手に握ったモンキーレンチでコルベットの屋根を殴り始める。一発がフロントガラスに当たった。砂利のつまった袋を振り回したような音とともに蜘蛛の巣が走る。
サラがコルベットを急発進させる。
そのまま凄まじい勢いで、ブレーキもかけずにトラックと路肩のわずかな隙間に鼻先をねじ込んだ。
両足をひきずられながら声のない声で何かを喚いている男と一瞬だけ目が合う。もう一度、左拳でその鼻を殴りつける。揺れる天井にごんごんと頭をぶつけながら血の流れこんだ片方の目がこちらを見ている。限界まで見開いた目は意外なほどに澄んでいて可愛らしい。わたしと男の片目は、見つめ合ったままどんな言葉よりも雄弁にお互いの意志を投げ交わす。
男のねじれた下半身がピックアップトラックのボンネットに乗り上げたのを確認して、わたしは両手を放す。
血まみれの顎が窓に引っかかり、フードが脱げかけた頭が抜ける瞬間に陽気な音をたててガラスが砕けた。呼吸を取り戻した男の叫び声が地面に転がり落ちてすぐに遠ざかる。
トラックのグリルガードに横っ面をえぐられながらコルベットが前へと飛び出した。左に派手に尻を振り、直後にサラが急ブレーキをかける。彼女の目がバックミラーに刺さっている。わずかに遅れて、背後から男の怒号が聞こえた。
サラの青ざめた頬が前を向く。再び強引な加速を始めた雨ざらしのシートの上で、ずぶぬれになりながらわたしは声を出して笑う。血塗れの左の掌を自分の頬に擦りつける。すぐにそれが雨で流れていく。
砕けたガラスが膝の上できらきらと光を放つ。アクセルを踏みつけたまま、サラが大声でわたしに何かを言い、右手を伸ばしてせわしなくわたしの顔に触れている。怪我なんてない。どこにもない。その声はサラには聞こえていない。
恐怖を味わうことができるようになるまでに、たぶんもう少しだけ時間がかかりそうだった。それまでわたしは肺が空になるまで笑い続ける。
雨の音がひどすぎるせいで、二人の言葉は互いに何も届かない。



わたしは夢を見ている。今度こそ本物の夢には違いない。
瞼を灼いて過ぎるのは砂混じりの風だ。
大気は干涸びた獣骨そこのけに乾ききっており、年老いた男が目の前に立っている。彼はこちらに向かって銃を構えている。
傷だらけのリボルバーの先端が痩せた胸郭の動きとともに揺れる。聞き取れない言葉を呟きながら、男は不意に歯を剥いて笑う。笑っているのだと気づくのにほんの少しだけ時間がかかる。
クロームの短いバレルがちかりと瞬く。差しつける陽光をはねかえして銃身がまた揺れる。古い手鏡か何かで遊ぶ子供のように。
わたしは右腕をできるだけまっすぐに伸ばすようにしてそこに立っている。
結局のところ、銃声は一つだけで終わる。
白と灰色の石くれだらけの地面を雲の影が薄く覆い、じきにそれが通り過ぎる。
どこか遠くで子供の笑い声。トウモロコシ畑を揺すって消える風。
足の折れた案山子が仰向けに倒れている。その額から血が流れ、赤い土に染み込んでいく。案山子は老人の顔を持っている。その目は限界まで見開かれて、それぞれにきれいに二つの太陽を映している。
わたしは再び一人きりになる。
右手にぶら下げた拳銃は頼りなくその重さを失ったままだ。
祈りの言葉は何一つ思い出せなかったから、わたしは歩き始めることにした。
けれど。本物の夢なんて。
どうしてそんなことが分かるのだろう。



4月12日 AM 5:30

朝もやの中でコーヒーを啜っていると、ガススタンドのトイレからベネッサが出てくるのが見えた。
びしょ濡れの前髪と手を犬のように振りながら、こちらをふり返る。新しいシャツの胸がもう半分以上湿っている。幾分、間の抜けた笑顔だった。
「服はどうしたの?」
「中で捨てた」
まだ濡れた手がコーヒーのカップを奪い取る。安物の石鹸の匂い。「汚れが取れなくて」
「朝食はまだやってないらしいわ」
「それは残念」
「スナックを買ったからそれで我慢なさい」
待てばいいじゃない。ベネッサが呑気に笑いかける。「あとどのぐらい? ああ、まだこんな時間」
「天気が良いうちに距離を稼ぎたいわ」
「なるほど。窓ガラスも一枚なくなったことだし」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「ひとつだけ聞いても?」
「どうぞ」
「どうしてトランクに着替えが入ってるの。しかも二人分」
私は答えずに辺りを見回す。さして広くもないEXONのスタンドにはおんぼろの黒いビュイックが一台、太った女が眠たそうな顔で給油しているきりだ。若い黒人の店員が一人だけいるが、彼は奥のブースの影に隠れたままで相変わらず雑誌を読みふけっている。
コルベットのドアに手をかけた私に、ベネッサが肩をすくめてみせる。
「運転代わるわ。寝たら?」
「昨日からこっち、あんたの口から出た台詞の中じゃ一番まともな意見だわ」
「代わるのいつも嫌がるくせに」
エンジンをかけたところで、ベネッサが少しだけ首を傾げる。ごめんね、と言ってハンドルにもたれかかるとそのままひび割れだらけのフロントガラスの向こうを見ている。そうしているとまるで、もう何もしたくないと勉強机の前でだだをこねている子供のようだ。もちろんそんな感想は口にはしなかった。
私も彼女もしばらく黙っていた。
「何が?」
「昨晩のこと」
私も前を見る。だだっ広い二車線道路を隔てて、ガススタンドの遥かな正面にはちっぽけな食料品店。その隣には薄汚いモーテル。そのまた隣には小さな郵便局。食料品店のゲートはまだ閉まったままだ。ガラスの破片は全て払ったはずなのに、ジーンズの尻の下、革シートの表面には妙にざりざりとした細かな感覚がある。
「謝る必要はないわ」
「そう?」
「あんたを連れてきたのは私だし、それに」私は彼女の声を遮る。ベネッサの声がほんの微量な怯えを含んでいることが、私を唐突に不安にさせる。「二人とも無事だったかどうかなんて分からないわ。例え、あんたがああしなかったとしても」
「窓ガラスは無事だったかも」
「ベネッサ」
「あの間抜け野郎は最初からわたし達を殺すつもりなんてなかった。きっと」
「どうして分かるのよ」
「すぐに車を出してくれたから助かったけどね」
「おかげでガラス代を弁償させそこねたわ」
「まあね」
「どうして銃を出さなかったの」
私の声にベネッサが一瞬だけきょとんとする。ああ、銃ね、とにやりとした。「持ってなかったから」
「え?」
「しばらく持たないことにした」
それきり声が途切れた。聞き慣れたエンジン音だけが不規則な震動を背中に伝えている。ごろごろと不細工な軋みを響かせて、ビュイックが私たちの隣をゆっくりと通り過ぎていく。
思い出したようにウインカーを上げかけてから、ベネッサの動きが止まった。わずかに迷ったように振り返る。
「ところでどちらへ? お嬢様」
「南よ」
「今更だけど行き先は」
「ここから南に走り続けたら馬鹿でもバハ半島にぶちあたるわね。暇なら地図がそこにあるからどうぞ」
「まさかと思うけど。わたしを拉致した挙句にメキシコくんだりまで捨てにいくつもり?」
「それもいいかも」
「もうどこでもいいよ、朝ご飯さえ食べられるなら」
どこに着くのか判らない車に乗って、窓の外を見ている。
たとえば振り向いたら、そこに彼女がいない瞬間を想像してみる。歪んだフロントガラスの向こうには、流れていく遠い雨雲とそこから漏れる光が見える。遠すぎるその光景にも似て、私にはもう、それが現実なのかどうなのかもよく分からない。
正しく私が指差した方向へ、コルベットがゆっくりとその鼻先を向ける。
砂塵だらけの中央線が剥げかけたアスファルトの只中へ。

2008.6.14
バーチャファイター ベネッサ&サラの番外編です。短いです。次回作のハナシの枕みたいな感じです。

​と見せかけておいて長い休止時間を経た現在、逆に次回作はサラベネの「最初の」出会いのお話にしようと目論んでいるところです。VF6出そうにないし展開的にこれ以上広げようが…。
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