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chapter. 3
chapter. 3 ▶︎Nex stage
 
はるか頭上にあるのは厚い墨色の雲ばかりだというのに、その切れ間からはいつのまにか蒼白い月が覗いていた。
月の光は冷たいなどと誰が言い出したのかは知らないけれど、満ちている月の表面温度は水の沸点を軽く越える灼熱地獄だ。そう教えてくれたのは父さんだった。
彼女は思い出す。思い出しながら自分が冷たい地面に横たわっているという事実に不意に気づく。
何も聞こえない。
背骨を通してなにかの振動だけが不規則に伝わってくる。白い骨のような街路樹が視界に覆いかぶさっている。薄暗がりの空を何かが斜めに羽ばたいてかすめ過ぎ、少ししてから、それが蝙蝠だと気づく。
目は開いている。
それでも指先ひとつ動かすことができないままだ。
ぽたり、と鼻の頭にひとしずく、何かが落ちた。頬から唇をつたい、顎まで流れていく。
額に、頰に、それらがぱたぱたと、数をなして増えていく。 雨が降り始めていた。 不意に、するどい匂いが彼女の鼻腔に充満する。乾いたアスファルトが少しずつ濡れていく匂い。
落ち葉が腐っている側溝から顔を覗かせたシデムシが一匹、彼女の肩を登り始めた。視線の先でそれが首を通り鎖骨をすぎて、触覚をゆらゆらと振りながら、左の頬まで這い上ってくる。 痛みはなかった。どこにもなかった。ただ寒気と、皮膚と筋肉の隙間という隙間に綿を詰め込まれたようなむず痒い不快感だけがしんしんと続いている。
薬で眠らされたままの肉体が完全に覚醒するまで、彼女は目を開けたまま待 つことにした。
 
 
 
沈黙はさほども続かなかった。
うす汚れたログキャビンの中、ローテーブルの上でガスランタンが二人の周囲に淡い影を落としている。
風がまた壁を震わせて消え、右の眉を疑問の形につり上げたまま、ベネッサの茶色の瞳がどこかにある光源をちかりと反射する。
「なぜここを知ってるのかまでは聞かないけれど」
ゆっくりとしたその声が床へと落ちた。
「早く帰るべきよ。あなた以外にもこの場所を知ってる人間がいるってことだから」
そう、と軋んだ声が相手の語尾を遮る。「指図される謂れはないわ」
サラ。
もう一度ちいさく呟いてベネッサが首を一つだけ横に振る。器用に椅子を傾がせたままで両方のブーツをテーブルに載せた。
「怒らないで」
「そう見えるの? 」
「この状況がばれたら、わたしは明日の朝を待たずにJBに絞め殺されるわ。賭けてもいいけど」
「......何のことを言ってるの」
「知らなかったの? 」
見る間にサラの頬が歪む。「彼は何も言わなかった」
今度はベネッサが黙り込んだ。
「どいつもこいつも嘘つきばかりね」
「お喋りが過ぎたわ」
「兄貴より先に私があんたを八つ裂きにするわ。あんたが、私の知らない間にまた消えたりしようものなら」
「それって」
ブーツを床に降ろして立ち上がったベネッサがランタンの灯りの輪から抜け出てくる。薄闇の中で突っ立ったままのサラにふいと顔を近付けてきた。その口の端が歪んでいた。「まるきり愛の告白みたいに聞こえるけど」
「最初に私に近づいてきたのはあんたなのよ」
「あなたに関わることが嫌になったと言ったら」
サラの薄い唇が固く噛み締められるのを、明るいハシバミ色の瞳が容赦なく見つめていた。
サラ、と呟いてから、黙ったままの金髪の女に向かって首を傾げる。
「あれからどれだけ経ったの。一年。ああ。二年? 」
「一年と九ヶ月」
「長かった? 」
さあね。吐き捨てるように短い声をたてて笑った。「ええ。長かったわ」 ベネッサが再び口を閉じる。 先程の笑みはしかし、寸分違わずそのまま口元に残っている。目を伏せたまま、ランタンの灯芯を調節する螺子へと指を伸ばして少しだけそれを弄っていたが、ややあって手を引っ込めた。
「その間に何かが変わった?  それとも変わらなかったの」
のんびりとした声に、ランタンを見ていたサラの唇がほんの一瞬だけ震えを刻み、すぐに消える。
「何を聞きたいの」
「そのままの意味」
「あんたは約束を守らなかった。何も言わずに消えて。戻ってこなかった。私が知りたいのはただ一つよ。その理由は? 」
ランタンの灯心が一瞬だけ翳り、また現れ、ベネッサが再びテーブルの向こう側に戻ったことを知る。
「覚えてないわ」
二呼吸ほどの間、彼我の間に奇妙な静寂が落ちた。 サラが口を開きかけ、また閉じる。
「別れた後の記憶がなくて」
「そんな話を信じると思う?」
ベネッサの肩が動き、肯定とも否定ともつかない意志を表明する。
「病院に担ぎ込まれて、ついでにどこかの親切な馬鹿野郎がJBに告げ口してくれたの。やってきた彼は頭から湯気を出してた。二度とあなたに会うなってね。殺されるかと思った」
「私はあんたを探してた。ずっと探してたの。でも誰一人としてあんたの話をしようとしなかった。まるで最初からこの世界に存在していなかった人間みたいに」
ベネッサの横顔にはまだ嗤いのかたちに歪んでいたが、その唇は噤まれたまま頑固に沈黙を守っていた。 ようやく、ベネッサが小さく短い単語を囁いた。
「どうして謝るの」
そうすべきだから。灯りの向こう側で首をすくめる。
「そんな言葉なんていらない。何を恐れているの」
「恐れる? 」
「裏切り者になるつもり?」
「否定はしないわ」
その声にはさしたる表情もなかった。
再び壁が揺すられる。その風の音が強くなっていた。ベネッサが静かにため息をついた。
「今晩はこんな天気だし、疲れてるみたいだからとりあえず向こうに寝床を作る。でも」
「ベネッサ」
「とにかく早く帰って。誰かに見られる前に」 褐色の肌をした女が立ち上がる。壁際のサラの傍らをすり抜け、隣室へと消えた。
サラは身動き一つしなかった。
 
 
 
慣れないベッドがもたらした眠りはごく浅く、曖昧で、目覚めている夢を延々と見ていたようだった。 誰かが部屋に入ってくる気配がしていた。ゆっくりと右から左へと横切っていく。衣擦れの音。
薄暗い部屋に淡く裸の背が浮かんでいる。
それはごく当然のようにそこに存在していた。なだらかな弧を描く二つの肩甲骨から背骨のくぼみまでの間を、鋭い暗色の輪郭が幾重にも渦を巻き、流れ、 精緻な一つの図像を浮かび上がらせている。
見ているものを意識が咀嚼して嚥下し終えるまでに、かなりの時間が過ぎる。
過ぎたようだった。
刺青。褐色の肌に黒い翼が広がり爪を立てている。
部屋を再び裸身が横切り、視界から消える。感覚の総てが再び闇に沈むまでのわずかな間、毛布の隙間でまどろみながら彼女はただぼんやりとそれを眺めていた。
記憶の破片が夢の残滓に重なり、淡い恐怖を生んだ。血の匂い。グロテスクな半裸の像。男も女も。闇の中でその質量を誇示している。滑らかで温度のない皮膚の上でのたうつ黒い紋様。
シャツを着替え終えた影が肩越しに振り向く気配がした。
影はそのままじっとしているようだった。数呼吸ほどの後、密かな足音が隣 室へと消える。
サラは静かに目を閉じる。
途切れたままに放置された夢の中へと戻るのは思いの外に容易かった。 
 
 
 
二日前。
ベネッサ・ルイスの消息を彼女に教えることのできた最初で最後の男が目の前に現れた時、サラは回転ドアの前でコートの襟を立てていたところだった。
汚れた爪をしたその男は彼女の見せた写真にどうともつかない一瞥をくれただけだったが、二年間に渡る徒労に報いるにはそれで充分と言えた。
男は今までに何度も訪れた例の警備会社の清掃員で、件の混血女とは二年前には朝のコーヒーを自販機の前で並んで飲む程度の親しさでしかなかったが、 それでも失踪後に彼女の姿を見た唯一の人間であることには代わりなかった。
男はお喋りの合間にコーヒー代を彼女にたかり、次には彼の古ぼけたガレージに真新しいシャッターを購入するに十分な金額を彼女に打診してきた。サラはさして感情も見せずにその全てを承諾した。
男はベネッサの名前もよく知りはしなかったが、その日の車種と色だけはよく覚えていた。
青いダッジ・デュランゴが彼が屋外に運んでいたキャスターつきのダンプスターをブロックし、更にはちょっとした行き違いから、男の朝の貴重な数十秒を無駄にしたからだ。
ほんの十数時間前にベネッサ・ルイスはこの建物に顔を出していた。
社内の連中は全員がそれを否定したが、中古のデュランゴの出どころだけは程なく見つかった。その車の最終所有者は車検証を偽名で登録していたものの、奇跡的に盗品ではなかったからだった。
次の一日が終わりを告げる頃、サラはサンフランシスコからフレズノへ向かうハイウェイを走っていたのだった。
夜もとうに更けてから辿り着いたキャビンのドアの先にいた女は、記憶の中と寸分違わない髪の色と滑らかな褐色の肌をしていた。
予想されたような邂逅の場面も、劇的な言葉も、何もそこにはなかった。ベ ネッサは心底驚いたようだったが、ただそれだけだった。
彼女を抱き締めることも追い返すこともせず、黙って家の中へと招き入れた。 唯一つ予想通りだったのはそのハシバミ色の瞳だった。凪いだ光を保ったまま彼女を見ているその目はサラの内部に焦燥と怯えを生み、それを彼女自身の怒りと混同するのは容易かった。
翌朝、隣室のベネッサが目を覚ます前、サラは来た時と同じようにその場所を立ち去った。
 
 
 
電話の主は慇懃な言葉遣いだったが、最後まで名乗らなかった。
だから彼女も、それ相応の態度を保ったままで会話を交わした。男はサラ・ブライアントを探しているのだと言った。二十時間ほど前から連絡が取れないというのがその理由だった。
通話を切った直後に再びコール音が鳴ったが、今度は彼女は無視した。
いつまでも鳴り止まないそれの息の根を止めてから、しばらく考える。
冷えきった部屋の中でテーブルに足を載せたまま、爪を噛みながら壁の羽目 板の割れ目を眺めて過ごす。首にひっかけたままのヘッドフォンは胸元で今日何度目かの同じ曲を静かに吐き出している。
もう一度、セルの画面に触れた。
メモリにないその番号は、今でも指先が覚えていた。呼び出し音。三回。四 回。窓に近寄ると外を眺める。今年の雨季の始まりは早く、灰色の空がトウヒの森に重くのしかかっていた。
呼び出し音はまだ終わらない。
二十回まで数えたところで切った。
テーブルに腰を下ろしかけて、そして立ち上がる。もう一度爪を噛むと腕時 計を睨む。四時二十分。 思いつく限りで最後の番号で相手が出たのは僥倖と言えた。
あんたか。どうしてた?  耳障りな男の笑い声。『噂じゃあんた、とっくにおっ死んだってことになってるぜ。どういうことよ?』
大半は聞き飛ばしながら、用件だけを最小限の単語で伝える。
『......ああ、例の財閥のお嬢様ね。なんでお前が、なに、行方?  つい昨日だったか。あんたのネタを買い漁ってるっていうから、ちょいと面白い小話を聞かせてやったらすっとんでったぜ。怒るなよ、こちとら不景気続きで首でも吊ろうかってご時世なんだからよ。ああ、場所?  ちょっと待て......』
手の甲にペンで走り書きをして、最後まで聞かずに通話を切った。
ヘッドフォンをかけ直し、ホルスターと車のキーを掴むと立ち上がった。
 
 
 
沈香の匂いが鼻腔をついた。
赤い薄闇に慣れた視界に異質な色彩が飛び込んでくる。
腰ほどの高さの黒檀のテーブルに、さらに黒く闇を凝集したひと抱えほどの何かがうずくまっている。斑点のある柔らかな短い毛並みを備えた小さないきもの。優雅な伸びをして、猫が背骨の輪郭を見せつけながら立ち上がる。二つの金色の瞳は彼女を通り越して部屋のどこかを見下ろしている。
その視線の先をゆっくりと追う。
サラは女の腕の中にいた。
床の上に、奇妙にねじれた格好で二人の女が座り込んでいる。サラの右腕が見知らぬブルネットの肩口を逆しまに掴んでいる。女は血の色をしたチャイナドレスを纏っていた。こちらを向いた艶やかな黒髪がサラの紺青のドレスの上で乱れ、また位置を変えていく。
「新しいお客がきたようだ」 嗄れ声が届くより数瞬ほど先に、ベネッサは男の存在に気付いてはいた。さほど広くもないうす暗い部屋の片隅に椅子があり、そこに肉の塊が座っている。
かすかだが耳障りな呼気の音に、時折、ほんの気まぐれと言った風情で咳が混じる。
「彼女に何を飲ませたの」
毛足の長い絨毯の上でサラの腕が再び相手を押しのけようと動く。そのどこにも力が入っていないのは明らかだった。赤いドレスの女が音も立てずに立ち上がる。その口元から透明な液体が一筋こぼれ、女が舌の端でそれを舐めとった。
「毒ではないよ。大したものではない。だからといって格別に美酒という訳でもないがね」
「連れて帰るわ」
「好きにすればいい。彼女の方からここに来たのだから、帰るのもご自由だ」
薄いがよく撫でつけられた白髪を戴いた太い首が緩慢な動きを見せる。その表情は闇に隠れて見えない。 濃茶のガウンから丸々とした右手が伸び、女へ向かってわずかな手振りをした。
女がその椅子の背へと回り部屋の中央へと押しやる。男が十分に老人と言えるような年齢であり、それに、その巨体を支えているのが車椅子であることにベネッサはようやく気付く。
「色々な連中が好き勝手な都合で儂の所に来る。本当に知りたいことを手に入れるためには幸運以外のものが必要だ。そうは思わんかね。それにそこのブライアント嬢だが」
鼻風邪をひいた子供のような仕草で片手で鼻をかんだ。車椅子の部品のどれかが小さな軋みを上げる。「彼女には少々礼儀に欠けるところがあるようだ」
ベネッサは何も言わなかった。
男が口を噤む。
敷物の上で青い布の堆積物が立ち上がろうともがき、膝が崩れる。無表情に突っ立ったまま、チャイナドレスの女の伏せた視線がそこに突き刺さっている。
ベネッサがひざまづくとサラの右の頬に指で触れた。「サラ? 」
返答はない。冷たくて湿った肌の感触。
「ベネッサ・ルイス。そうか。お前さんか。噂には聞いていたよ」
「噂? 」
「つまらん話だ。彼女はとある組織の情報を買いたいと言ってきた。無駄金の使い道としては最高の部類だな。儂は金など飽き飽きしておるし、それに彼女は儂を満足させることはできなかった」
サラに肩を貸しているベネッサの背に、囁くような嗄れ声が再び降ってくる。
「お前さん、一人であの場所から出てこられたとでも思っているのかね」
「わたしがここにいるのは、どこかの馬の骨がそれを望んだからよ」
「知りたくはないか。誰が味方で、誰がそうでないのかを」
どうでもいいね。溜め息ひとつと一緒に、サラを抱えたベネッサが立ち上がる。部屋の中に紗のようにたち籠める匂いと赤い闇が撹拌され、彼女は軽く眉をひそめる。「敵を欲しいとも思わないし、味方なんてもっと必要ない」
「ではそのご令嬢はどちら側の人間だと思う?  彼女の父親のことはまさか知らない筈はあるまい」
「彼女はわたしの主人だし、それ以上でも以下でもないの。それにあんたは少しお遊びが過ぎた。そう思わない? 」
「いつでも来るがいい。情報が欲しければな」
「ありがとう。でも二度目はないわ」
「それは残念」
老人がかん高く笑い、太い指がドアを指差した。
「お帰りはあちらだ。床を汚さないうちにお引き取り願おう」

 

 

 

「どういうつもり? 」
ドアの閉まる音に邪魔されたせいで、サラの返答は少し遅れた。
ベネッサが車を停めたのは、屋敷の車寄せからはまだかなり距離のある舗道だった。少し離れた位置にある巨大な門灯の明かりがかろうじて二人分の足下照らしている。
「言う必要があるとは思えないわ」
「歩ける?」
人目につくわ、と囁いてベネッサの手を払いのけた。サラが舗道の上で緩慢に体の向きを変える。夕方まで続いた雨のせいで、アスファルトはまだ黒く濡 れていた。
灌木の茂みの向こうに広がるブライアント家の広大な敷地のほとんどは、今は闇に包まれていた。
「あれは有名な男よ。暇を持て余した富豪で、人殺しの絵描きのパトロンで、 悪趣味な映画の蒐集家。下衆な情報屋。それに不能」
「知ってるわ」
「あなたがもし無理強いされてたんだったら、あの場であの男を殺してた」
青いデュランゴの擦り傷だらけのボンネットに寄りかかってキーを掌の上でダンスさせながら、ベネッサがちらりと振り向く。その口元が歪んだ。「随分と安い売り方をしたものね」
サラの平手がベネッサの左の頬で爆ぜた。
一瞬の後、驚いたように見開いたハシバミ色の虹彩が、ほとんど同じ高さで サラのそれと重なった。
「あんたに私を軽蔑する資格はないのよ」
サラの声はまだよろよろとしていたが、言葉ははっきりと届いた。「馬鹿にしているの?」
「いいえ」
「なら消えて。今すぐに」
「それがあなたの望みなら」
右手を握りしめたまま、サラが口を噤む。唇を噛んだ。
「私は誰にも懇願なんてしたことはないの。今までも、誰にも」
「知ってる」
「私にそんなことをさせないで」
どうともつかない様子でベネッサが頷いた。目を伏せて頬を撫でる。ごくゆっくりとした仕草だった。 ベネッサが顔を上げた時、サラは既に背を向けて歩き出していた。
彼女はその後ろ姿をしばらくぼんやりと見ていた。通り過ぎるヘッドライトの光にその影がが隠れ、また現れる。夜と排気ガスの鋭い匂い。
右手のキーを強く握り締める。ポケットに突っ込んだ。
足早にサラの後を追う。ショールに包まれた肩を掴むと一息に引き寄せた。
腕の中で金色の髪が乱れ、驚いた声で何かを言う。言ったようだった。
唇を奪う。
弱く抵抗するサラを抱きすくめたまま、あなたを連れていくよ、と囁いた。
ベネッサがふと斜め上を振り仰ぐ。
錬鉄製の巨大な門扉の天辺に鎮座しているちいさな監視カメラをしばらく見据えていたが、ややあってため息とともに肩をすくめてみせた。
「JBがこれを見てることを祈るわ」
 
 
 
嘘ばかりね。
ぽつりと呟いた言葉がベネッサの汗ばんだ首筋に落ちる。キャビンの中は薄 暗く、ベッドの周囲だけにランタンの灯りが落ちていた。ストーブの中で薪が 弾ける音。
「嘘? 」
「記憶がないなんて」
「半分は本当だけど」
「それで通るとでも?」
「いいえ」
「あんたが言っていないことは他にもあるわ」
「山ほど」
「この刺青も」
指先が褐色の背中をなぞるように過ぎる。反射的に体を丸くしたベネッサが その手を押しのけた。指を絡めるとそのままシーツに押しつける。
「連中の反吐みたいなものよ」
「見覚えがあるの」
ああ、と曖昧にベネッサが頷いた。「まあ、こっちから連中に吐きかけた唾の代償だと思えば安いものよ」 額にうるさく落ちかかるブロンドをかき上げていたサラの手が止まった。
「そう? 」
そう、と呟いてから、少しだけ体の位置をずらした。「どうしようか。これから」
「どこに連れていくつもり? 」
「どこでも。あなたの望むところなら」
サラがしばらく考えてから、しかつめらしく頷いた。ベネッサの裸身を身体の上にもう一度引き寄せると口づけた。
「雪を見にいかない? 」
 
 
 
「君がいつ来るのか、恐れていなかったと言えば嘘になるよ」
広大な駐車場には湿ったコンクリートの匂いと、明滅する蛍光灯のたてる小さな呻き声が満ちている。彼方のどこかで反響する微かなエンジン音。
「随分と無防備だから驚いた。自殺志願者って訳でもないんでしょ」
「今日か、明日か。ずっと先かも。それとも」
恰幅の良い紺のスーツ姿が彼女の視界の中で振り返る。マセラティのドアを閉めると右の掌をトラウザーのポケットに突っ込んだ。すぐにそれを出す。「永遠にその日はこないのかもしれん、とね」
「知ってたの」
「勿論。君が生きてここにいるのは私の指図があったからだし、それ以上の意味はない」
「貴方の? 」
「二年間の飼い犬暮らしはどうだった?  それなりに快適だったろう」
「まあ、退屈はしなかったわ」
「君の扱いには皆が少々困惑していた。それは事実だ。あの組織は品質の良さでは定評はあったが、今はもう傭兵売買なぞで大した稼ぎが出る時代じゃない。上得意の政府ですら中東や南米での利権を失いつつあるからな」
車一台分ほどの距離を取って立っている灰色の髪と目をした男の声はよく響き、眠りを誘うほどに低かった。
「この趣味の悪い刺青も? 」
「君たちはいわば金のかかる玩具なんだよ。組織にとってはね」
「わたしはもう誰の犬でもないし、今からそうなるつもりもないわ」
「私を殺さないのかね。そう言われてきたのだろう?」
ベネッサは答えない。
男の革靴がコンクリートの上で砂埃を踏みしめた。「彼等に背けばどうなるか、良く知っている筈だろうに」
「知ってはいるけど、興味はないね」
「君の興味とは? 」
「私達には共通の秘密があるのかも。そうは思わない? 」
秘密か。
灰色の顎髭に囲まれた薄い唇が歪み、深い皺を頬に刻む。
「彼女の事を言っているのかね」
「私が二年前に貴方の屋敷の警備を引き受けた時、どうして黙って見過ごしたの。こうなることは知ってたはずなのに」
「君にはわからんよ。言う義務もない」
「そう? 」
「私はあれに知られたくないことがあるし、それは君も同じ様だ。現に今の君だが、その手に何を隠しているかをあれが知ったらどう思うだろうね」
そうね。
両方の掌をハーフコートのポケットに突っ込んだままの姿勢で、ベネッサが ほんの少しだけ首を傾げる。
「実の娘を組織に売ったって噂は本当なの」
男の表情には大した変化は無かった。
「私はこの五十年間を好きに生きてきたし、これからもそうするつもりだ。人生には幾つかの分岐点がある。それは後悔などというものではない。後悔など何の役にも立ちはしない。だが」 目を閉じる。ほんのわずかな逡巡の後にその声がひそまった。目に見えない誰かに囁くように。ごくゆっくりと。
「そこで違う選択をしていたらと夢想することはあるよ」
ベネッサが両手をゆっくりとポケットから出す。その掌は空だった。
OK、と呟いて肩をすくめる。
「取引は成立ね。ミスター・ブライアント」
 
 
 
ほの白く冷気をはらんだ微風が瞼をかすめ、窓を開けた彼女は、幾度か目をしばたいた。
窓枠と同じ高さに、テラスの椅子に座っている黒い影が見える。その向こうに明け方の空。輪郭だけの世界はまだ暗い。ガラスの嵌まった木枠のざらつい た感触を掴んでいる指先が静かにかじかんでいく。
首だけで振り向いたテラスの人影と視線が合う。淡い逆光の中でもその頬は銀色のひかりに縁取られている。吐く息は限りなく白くて頼りなく、小さな雲となって消えていく様はまるで魂の欠片が昇華していく儀式のようだ。
「そんなところで」 何をしてるのかと聞こうとしてから止めた。ベネッサは何もしていない。おとなしく座ったまま、ダウンジャケットで分厚くふくれた腕をきつく胸元で組 み、上半身を縮めて寒さと格闘している。
暗がりでその目元がちかりと光り、ベネッサが笑っているらしいことにサラはようやく気づく。
寒いね、と首をすくめながらまた笑った。
「当たり前でしょう」
「タスカルーサの十二月がこんなに寒いなんてどうかしてる」
「いつからそこにいるのよ」
「さっき。あなたが目を覚ます前」
間に合わせの擦り切れた膝掛けを肩に引っ掛けていたのを掻き合わせて、サラは窓を後にする。
白いセーターを急いで着込むと古ぼけたコートを羽織った。開け放しの窓のせいですっかり室内は冷えきっている。ストーブとキッチンに火を入れ、軽く足踏みをしながら周囲を見渡す。扉ががたついている棚から苦労してコーヒーの缶を探し出す。
湯気の立つカップを二つ手にしてテラスに出た時、既に空は明るんでいた。
薄墨を掃いた雲が次第にその厚みを失い、地平から湧いた深紅の冷たい色彩と互いにその領土を浸食し合っている。
テーブルの上に差し出されたベネッサの両手の中にコーヒーのマグカップを押し込み、ついでにその頭に持ってきた膝掛けを被せる。カップの表面で触れた彼女の指先はずいぶんと冷えきっていた。
反対側の椅子に腰掛けて、二人並んで空を見上げる。
冷たい大気に喉が痛み、せわしなく吐き出される白い息が顔のまわりにまとわりつく。
ベネッサはコーヒーを生真面目な表情ですすりながら、しきりにタートルネックの襟もとを気にしている。
「痒いの? 」
「なに」
「首のところ。ずっと触ってるけど」
「ガキの頃は」手もとでセーターの布地を引っぱりながら、「セーターが大嫌いだったわ。ちくちくするから。鬱陶しくない? 」
「カシミアよそれ。暖かいでしょ」 
「こんなシベリアみたいな寒さでもなければ着ようとは思わないね」
「嫌ならここで脱いでもいいのよ」
「着とくわ」
にやりとしてから、ベネッサが派手に鼻をすすった。「いい匂いがするから」
左手をテーブルに伸ばすとサラの右手を握ってくる。お互いの指先が冷たすぎたせいで、サラが大げさに肩をすくめてみせた。
「あんたはいつも寒そうな格好ばかりしてるわね。子供みたいに」
「そう? 」
「ここには雪はないわよ」
「ないね」
「こんなところまで私を連れてきた理由よ。そろそろ教えてもらってもよさそうなものだけど」
「あれ、言わなかった?」
「ひとことも」
「あなたに見せたいものがあって」
なにを、と呟いたサラに、ベネッサの右手が曖昧な弧を描いて左から右へと移動する。「これ」
テラスの前はだだっぴろい草原だった。誰もいないそこにそよぐ雑草の鋭い輪郭だけが、影絵のように黒い大地を埋めつくしている。
「これ? 」
「そうそう」
どこかで背後で、家の壁を撫で上げた風が唸りを立てる。
「いつか来ようと思ってたんだけどさ。一人じゃ嫌だった。ここは父さんと住 んでた家なの」
「まあ、そんなとこだろうとは思ってた」
「知ってた? 」
「あんたのことなら色々調べたわ。あんたはどう思うかしれないけど」
「どうも思わないよ」
そう、とサラが肩をすくめる。瞬き数回分ほどの沈黙。
まだ十分に中身と熱とを残しているマグカップを斜め上から睨みながら、ベ ネッサが喉を鳴らした。 「昔、父さんが、ほんとに信頼してもらえる友人ができたら連れてこいって言っててね」
「連れてきたの? 」
「何しろ二人とも山賊そこのけの生活だったから」カップを揺らしてちいさな漣を作る。
「友達なんて作る暇もなかったしさ。それきり忘れてた」
「それで? 」
「で、仕方ないから今日あなたを連れてきたってわけ」
「信頼してるなんて。私は一言も言った覚えはないわよ」
「そうだっけ」
「そうよ」
ベネッサが素早くサラの手の甲にキスをする。生真面目な表情を作ろうとして失敗し、すぐに吹き出してしまう。
サラが片手を繋がれたまま、ジーンズの右ポケットを探ると何かを取り出す。
天鵞絨で内張のされた小さな箱から、銀の細い指輪を取り出した。
指輪を人さし指の先でつまんだまま、溜め息をついた。
「そういう時は」ベネッサの左の薬指にそれを嵌める。「こうするものよ」
二つの視線が指輪に落ちる。
しばしの沈黙の後、ベネッサの目が上がった。笑いを含んだハシバミ色の瞳。 「さっきの話だけど、やっぱり取り消すわ」
指輪の表面を撫でてから軽く咳払いをする。にやりとした。「これじゃとても友達なんて言えないもの」
2006.12.24 
バーチャファイター ベネッサ&サラ小説の続きです。Only this momentの続編です。この二人に平穏な日々は訪れるのでしょうか。
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