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chapter. 2
chapter. 3 ▶︎Yesterday's gone

星は見えない。
見える必要もない。 天涯を埋め尽くしているのは薄墨色に広がる雲だけだ。距離感を喪失するほどに淡く高く鈍く、結構な速さで流れては水の様にその輪郭を変えていく。
どこかに確かにあるはずの月も、それさえも今は見えない。
苛ついている己れの指先を自覚しながら、彼女はほんのすこし視線を落とす。
丘陵地帯の中腹にあるこのコテージからは、闇に沈む湖の重油を撒いたような水面と、はるか北の市街地までが見渡せた。街の灯はまるで暗闇にぶちまけられた燠火のようだ。その風景はしかし、幾分現実感を欠いているようにも見 えた。いくらでも数え上げることができる硬質ガラスでできた偽物の星々。 ウェッジソールのサンダルの上で爪先が急速に冷えていく。バルコニーには彼女の他には誰もいない。季節外れめいた錬鉄のベンチとテーブルが、そこに 座るべき主を失ったまま、風に吹きさらしになっているだけだ。
思考の大部分を占めているのはただ一つの焦燥だ。その原因もあらかたは分かっている。
ストールが風に煽られ、手摺のざらついた錆の感触が剥き出しの肘に鋭い痛みを残した。もたせかけていた半身を少しだけ伸ばす。
そのまま振り向いた。
サラ。
声が投げつけられたのは、彼女が完全に身体の向きを変えるよりもわずかに早かった。
視線の先には半開きの白いドア。屋内へと通じるその扉からは、明かり取りガラスの細かなラインに切り取られた淡いオレンジ色の光が漏れている。
逆光の中に声の主のシルエットが佇んでいた。「やっと見つけた。こんなところで引きこもってるなんて」
階下のどこか彼方で派手に喧噪が響き、ウッドベースとブラシドラムの呑気なリズムがほんの一瞬だけ大きくなり、見慣れた薄い色彩の短い髪がドアの隙間から漏れる光の筋に翻る。
それらの全てがすぐにかき消える。影がドアを後手に閉めたせいだ。その左手には何故か足の長いグラス。なみなみと液体が満たされているようだが夜目には色彩までは判断できない。
ベネッサの姿を認めた途端、サラの喉の奥に巣食っていた苦い塊がその大きさを増した。
それはひりつくような感覚を伴っており、それ故に、彼女が今ここで抱えている全ての不快感の原因がそこにあると思い込むのさえ容易かった。
片手で髪を押さえ、眉間に皺を寄せて突っ立っているサラの視線には委細構わず、黒いパンツスーツの脚が彼女の数歩前で立ち止まる。
シルクシャツの開いた胸元には、夜と同じ色をした滑らかな肌が覗いている。
こんな馬鹿げたパーティに来るには味も素っ気も無さ過ぎる格好だ。けれども何人かの男と女がこの混血女に無遠慮な視線を送っていたことに、とうに気 が付いてはいた。物好きな連中だ。その気になりさえすればこの女は、彼らの二重顎の奥にある脆弱な首の骨など眉毛ひとつ動かさずにへし折ることができ るというのに。
サラは胸の中で唾を吐く。自堕落で躾のよく行き届いた羊達の群れ。羊には羊なりの暗黙のルールがある。楽しめ、味わえ、そして盲目であれ。快楽にも罪にも。
「雇い主から目を離しておいてただで済むと思ってるの」
「チェックは済んでる。ここは安全。残りの連中には表を張らせてるわ」
まあ、天変地異でも起きればそれはもう私の知ったことじゃないけど。ベネッ サが肩をすくめる。
「大した自信ね」
「酔ってる?」
「いいえ」
もう帰るわ、と告げたサラの目の前に、スーツの腕がひょいと伸びる。「お飲物をどうぞ、お嬢様」
胸先に押しつけられたグラスを反射的に受け取ってから、サラが用心深く手の中のそれを目の前にかざす。薄いガラスの中の液体は透明だった。炭酸の泡はどこにも見当たらない。
唇をつけると冷んやりとした液体が口腔を満たした。ただの水。吐き気がするほどの清涼さで喉を流れていく。
「それで?」
「ん?」
「なぜそこに突っ立ってるの。あんたも警護ももう必要ないの」
「あなたを抱こうと思って」
唐突に自覚したのは体の奥底に湧いた鈍い衝動だった。サラは目を上げる。
口元ははっきりと歪んでいたが、目の前の女のハシバミ色の眼には笑みはな かった。
グラスの中に残った水をその顔に浴びせる。ベネッサは避けようともしなかった。最後の数歩をあっという間に詰めると、サラの唇を奪う。掌から滑り落ちたグラスが砕ける音。
先程までの焦燥はいっそうその確かさを増し、今や彼女の全身の皮膚の下で 灼けつくような痛みを放っていた。
ベネッサに下唇を噛まれ、抗おうとした二つの手首を強く抑えこまれる。
のけぞった首筋に乾いた唇が這い、ぐらぐらと視界が揺れた。見上げた空にはやはり星がないままだった。背中に容赦なく押しつけられる錆びてざらついた手摺の痛み。夜の鋭い匂い。足元で軋むガラスの破片。水に濡れた髪が肌をかすめる感触。
「破らないで」
性急な手つきでサラの胸元をはだけていたベネッサの掌が一瞬だけ止まった が、すぐに動き出す。
「それもいいかも」
「やめて」
「下の連中が気になる?」
「思い通りに何もかもが進むと思ってるのなら」 笑いを含んだ吐息が耳朶をかすめ、囁いた唇ごと今度は言葉も吸い取られた。
露骨に全身を這い回り始めたベネッサの掌の動きに喘ぎを漏らし、思わず臍を噛む。目を閉じる。
渇いている。今でははっきりと気づいている。これは渇きだ。どれだけ触れても足りない。どれだけ触れられても満たされることはない。それは凄まじい速度で膨れ上がり、熱く喉を焦して臓腑へと滑り落ち、逃れようのない灼けつくような疼きが彼女の内部に恐怖を残す。 快楽も罪も、何の救いにもなりはしない。それには既に手垢がついてしまっている。
顎を掴まれるとそのまま現実に引き戻された。 獲物を物色する獣特有の生真面目な表情で、ベネッサがこちらを見据えている。
至近距離で瞬いているふたつの薄茶色の瞳は思いがけず静かな光をたたえていて、けれど一度として揺らぐことはなかった。
 
 
 
車寄せにはかれら以外の人影はほとんどなかった。
うす暗がりの中、横づけされたベントレー・アルナージがほの白くその巨体を晒している。開かれている後部ドアに滑り込もうとして、ふと、背後のベネッサがこちらを見ていないことに気づいた。
彼女の視線の先を、なかば無意識に追う。
コテージから続く歩廊の奥、よく手入れされただだっ広い前庭のごく間際まで、背の低い灌木とシダの茂みが迫っていた。そこだけ鋪装されている駐車スペースの四隅に設置されている水銀灯の無骨な光に照らされて、いかにも今晩の客達の所有物めいて面白みに欠ける高級車たちが声もなく鎮座している。
ベネッサはその彼方の、林道の途切れた辺りの暗がりを見ているようだった。
そこには何もない。
ふとその顔がこちらを向く。サラの表情を見咎めたのか、どうともつかない様子で肩をすくめるのが見えた。
サラに向かって車に乗るよう身ぶりで示してから、周囲にいたスーツ姿の男達に近寄った。短い言葉で何やら指示をしている。
反対側のドアからベネッサが乗り込んでくるまで、それほどの時間はかからなかった。
エンジンがかかり、ショーファーの手で静かに車が公道へと滑り出す。乾いた革の匂い。隣に座る混血女の薄い体臭と、それはよく似ていた。
なにを見ていたの。
低く告げた言葉に、窓から外を眺めていたベネッサが横目でこちらを見た。
「何でもなかった」
「そう」
「心配? 」
「あんたの適当な仕事ぶりはよく知ってるわ」
ああ、と眉を上げて、それからほんの少しだけ笑ったのが、薄闇越しにもはっきりと分かった。滑らかなアルトの声が更にひくくなる。「ご機嫌斜めの理由は、さっきのあれ?」
「加えて、大層な自惚れ屋ってこともね」
「痕は残らないように注意したけど」
思わず振り向いたが、ベネッサは既にすました表情で窓に視線を戻していた。
この女の挑発に乗らないだけの分別をわきまえるのは、存外に難しいことの様だった。
皮膚に残る真綿のような疲労と、鈍い疼きの残り火から目を逸らして、サラはシートの上で深く足を組んだ。
 
 
 
「火を貰えるかい? 」
遠慮がちな男の声に、目だけで振り向いた。
しおたれた作業服を着た痩せぎすの男が、安物のスツールに腰を降ろしたまま彼女を見上げている。
「悪いけど。煙草はやらないの」
「ああ。今日はクソ暑いな」
「全くね」
中年男はそれでも未練たらしくブルーの上着のポケットをまさぐっていた。
くわえ煙草のまま後ろを振り向き、ちょうど急ぎ足で通り過ぎていた小太りのウェイトレスに、マッチくれないか、と声をかける。男の声には得体の知れない外国訛りと、それに、ほんのかすかに吃音があった。
「座りゃいいのに。がら空きだよ」
返事の代わりに肩をすくめ、中身の少なくなったプラスティックカップをぷらぷらさせながら、男と同じカウンターに寄りかかったベネッサが店の中を見渡す。さして広くもないコーヒーショップには、男に指摘されるまでもなく客の姿はまばらだった。午後まだ早い陽気はそれでも既にむっとするほど暖かく、 通り沿いのガラス越しにたっぷりとした紫外線を二人に浴びせかけている。
先程のウェイトレスが汚れたトレイ片手にまた足早に通り過ぎ、ほんのついでといった風に男の手元にマッチを落としていく。
「待ち人来らずってか。時間はきっちり守ってもらわなきゃ困るよ」
ひと呼吸遅れて、ベネッサが初めて傍らの男の顔をまじまじと見下ろした。
痩せて血色の悪い頬と額に、これもまた疎らになった茶色い頭髪がへばりついている。男はまずそうにフレンチフライを頬張っているところだった。
ようやくベネッサが首を一つだけ振る。空のカップをカウンターに乗せると両手をパンツのポケットに突っ込む。
「あんたがそうなの? 」鼻を鳴らして嗤った。
「ほんとに気がつかなかったのか」
「胸に薔薇でも挿してくるのかと思ってたのに」
「俺はただのメッセンジャーボーイなんだよ」脂と炭水化物の塊を咀嚼しなが ら、男が横目でじろりと見上げる。「お互い忙しい身だろ。てっとり早く済ませようや」
「そういえばさ。あんた、一昨日の晩にあそこにいた? 」
「何のことか分からんね」
どうでも良さそうに頷き、それでも立ったままでベネッサが首を鳴らす。
「それで。話ってのは」
男が上着の右ポケットから取り出したのは、銀色をした小さな金属片だった。
カウンターに乗せると彼女の見える場所まで左手で押しやる。「あんたに見せたらそれで通じるとさ」 うすっぺらな楕円形をしたその表面は薄汚く曇っていたが、その表面に刻印された文字ははっきりと読むことができた。古ぼけた認識票だった。
横目でその様子を見ていたベネッサの眼が、ゆっくりと見開かれる。無意識にカウンターに手を伸ばしたが、静かな挙動で男がそれをまた自分の前に引き戻す。
「そいつを見せて」
「悪いな。持って帰れと言われてる」
冷めたコーヒーの残りを啜り込みながら男が無遠慮にベネッサの胸元を指差す。そこには全く同じ形状のドッグタグが一枚だけ黒いボールチェーンの先にぶら下がっている。唯一異なっているのは、彼女のそれにはサイレンサーが取り付けてあることぐらいだった。
「そいつはこれの片割れだろ。殊勝なこった」
返事はない。
「彼等の持ち札はこういうことだ。あとは、そっちからの手土産次第だと。あんたの聞きたいことにはそれから答えるさ」
「何が望みなの? 」
「お姫様を一人ご所望だ。手筈はこちらで整える。あんたは時間と場所を誂えてくれたらそれでいい」
ベネッサはわずかに首を傾げたまま、男の胼胝だらけの指の下にある物を見 据えていた。ややあってその顔が上がる。
「そんなガラクタに今さら興味ないと言ったら?」
「さて。連中はそうは思ってなさそうだったぞ」
「そりゃまた随分と買いかぶられたものね」
「どっちにしろ、あんたはもうあそこにはいられんよ。断わればね。もちろん断らんでも同じこったが」 ふん、と鼻を鳴らしてもう一度だけ笑い、ベネッサが少しの間沈黙する。
「とにかく用件は伝えたぞ。返事は今日中に頼む」
「あんたさ」
椅子を押しのけて立ち上がった男は、ベネッサより幾分背が低かった。その薄い後頭部を見つめ、カウンターに寄りかかったまま声をかける。「親父を知ってた? 」
「さあな。何故そんな事を聞く?」
「わたしのこれは本物じゃない」
「ほう」
「もちろんあんたの持ってきたそいつもね。それとも老眼で見えなかった? 」
「だが、こいつまでがそうじゃないと何故わかる」
「あの時に印をつけといたから。親父が死んだ時。わたしがナイフでつけた。 指が滑って自分の手を切ったわ」
男の表情にさして変化はなかった。痩せた肩をすくめるとまた汚れたブーツの先端に目を落とす。
「大した孝行娘だな」
「あんたに何がわかるかなんて、何も期待してないけどね」
「ルイスはいい奴だったさ。死んだ人間はみんないい奴だけどな。餓鬼だったあんたを組織から連れ出したせいで奴は死んだ。それでも彼はあんたの行く末を心配してた。心底な。分かってるのはそれだけだ」 今度はベネッサが肩をすくめる番だった。 男が店から出ていくまでの間、彼女はポケットに両手を突っ込んだまま、ガラス越しに見える通りを眺めていた。
 
 
 
「明日? 」
「そう。明日よ」
「そいつは得策じゃないね」
「それは私が決めることだわ」
「その男はあなたの何」
「必要な質問? 」
「もちろん。あなたのボディガードとしては」
「いい友人よ。食事に招待されてる。会わない訳にはいかないわ」
「身体の関係は? 」
反射的に振り向いたサラの前でベネッサは呑気にチョコレートを口に放り込 んでいた。華奢なつくりの肘掛け椅子の上で脚を組み、指についた残りを舐めている。その顔がしかめられたが、それが口の中の菓子が甘かったせいか苦かったせいかまでは判然としなかった。
そろそろ傾きかけた太陽が、開け放たれた窓枠から室内へと穏やかな光を投げかけている。
「何ですって」
「セックスはする仲なのかって聞いてるの」
「するわ。で?  この答えであんたの糞仕事の助けにはなった? 」
「てっきりあなたは不感症なのかと思ってた。男とはって意味だけど」
「その腐れた口をちょっとの間でも閉じることができないのなら、ここから出ていって」
「夜になるのなら連れてく人選を変える。あと、人数もね」
鏡台に視線を戻したサラが、返事もせずに再び手を動かし始める。チークを殊更ゆっくりと刷いている間中、鏡のかた隅でブーツの先をぶらぶらと動かしているベネッサが見えていた。
「ああそうだ。JBはこのことを知ってる? 」
思い出したように投げつけられた言葉に、鏡の中の浅黒い肌をした女と目が合う。
「いちいち報告する義務はないの。彼も今晩は家を空けるらしいわ」
ややあって、OK、とベネッサが口の動きだけで呟いた。すぐに視線を逸らすと立ち上がる。
輪郭のはっきりとした長身が、バスローブ姿のままのサラの真後ろを音もなく通りすぎる。鏡の中で、その足がふと止まった。
「もうひとつ」
「何よ」
「わたしはもう一緒には行けないわ」
「え? 」
「JBがわたしを解雇したから。忘れてた?  今日の正午づけでもう三ヶ月の 契約は切れてる」
しばらくの間、沈黙が室内を支配する。それを破ったのはサラが先だった。
鏡を見据えたままで静かにブラシを置く。
「ベネッサ」
「なに」
「あんたの目的はもう果たしたの」
どこからも言葉は無く、代わりに首をすくめる気配があった。
「化粧は必要ないと思うんだけどな。あなたは綺麗だから」
「答えなさい。私が質問してるのよ」
「代わりの人材はもう来てる。明日の晩には用意が整うし、優秀な連中だから 心配しないで」
ベネッサ。サラがもう一度、鏡の中へと呼びかける。 返事はいつまで待っても訪れることはなかった。彼女は影の様にドアの向こう側へと姿を消した。
 
 
 
ニュースが告げる今年の乾季の始まりは遅かった。
夜になってまた降り始めた雨は止むことがなく、サラは車の窓を流れる水滴だけを眺めて過ごすことができた。
男とのディナーには何の支障もなく、その後に立ち寄った雰囲気の良いバー での時間にも何ら不都合は無かった。男はいつものように彼女を引き止め、サラはそれを断った。ただそれだけのことだった。
だからベントレーが深夜の閑静な住宅地を抜け、いつもと違う道筋を辿り、いつのまにか人通りの全くなくなった路地で静かに停車した時も、彼女にはそれほどの驚きは訪れなかった。バッグの中に隠した拳銃へと伸ばそうとした彼女の右手を、隣に座った護衛の一人が無言のまま抑えつけた時にも。
銃はあっさりと奪われた。運転手が一旦降りると、反対側のドアから彼女の横に乗り込んできた。雨に濡れた手が伸び、左腕も押さえられる。 身体の前で両手首に手錠がかけられる。横腹に新しい拳銃がつきつけられる感触。すべてがいたって静かに執り行われ、サラもそれ以上の抵抗は試みようとはしなかった。
雨がベントレーの屋根を激しく叩く音だけが響いていた。
水溜まりを蹴たてて近寄ってくる足音。二人。三人。
窓を叩く軽い音がした。どこにも特徴のない白人男の顔が闇の中からこちらを覗き込んでいた。ガラスの表面を流れる水の影がその顔を歪ませては通り過ぎる。それらのすべてが奇妙に現実味を欠いていた。間近で低く告げる声。「降りていただけますかね、お嬢様」
ドアが大きく開かれ、雨の轟音のただ中へと誰かが彼女の肩を押した。
ステップを降りた途端、激しい水滴が頬を叩き始める。あっという間にドレスが水を吸って重たくなっていく。ぬかるみにヒールが刺さる感触。
男達は全員で五人だった。最初からベントレーに乗っていたスーツ姿が二人。
残りはシャツにワークパンツかジーンズといったラフな格好をしている。
彼等から少し離れた所に、ライトをつけたままの黒っぽい大型のSUVが雨を弾き返しているのが見えた。林の中を通る細いアスファルトを塞ぐように横付けされている。
その運転席から降りてきた新しい人影にだけは見覚えがあった。銀色の髪をした混血の女。
ジャケットの肩をずぶ濡れにしながら足早に近寄ってくる。サラを取り囲んだ男達の数歩手前で立ち止まった。
全員が無言のままだった。ベネッサが手で合図をし、サラの肩を押さえていた二人のうち、レインコートを着こんだがっしりした一人が頷く。彼女の腕を掴むとSUV車の方へと向きを変えさせた。
車の中へと押し込まれる寸前、背後から声が聞こえた。
「そうだ。昨日の質問の続きなんだけど」
闇が濃いせいで、ベネッサの眼がどんな表情を湛えているのかまでは判らなかった。
こちらを見ている唇はかすかに歪んでいるようだった。濡れた前髪がその額に張りついている。闇とほとんど同じ色の頬がほんの一瞬、笑いの形を作る。
「わたしはまだ、あなたから離れる訳にはいかないわ」
囁くように告げると一つだけウインクをした。
ベネッサがジャケットの下から何かを抜く。黒いハンドガン。
側面からサラを押さえていた男の鈍い色をした二つの眼がいぶかしげに細められ、すぐにそれが大きな声になる。「おいルイス、何考えて」
ベネッサが無造作に腕を伸ばして男の眉間を撃ったのと、サラが身体を低くかがめて反対側の男の足を払ったのはほぼ同時だった。派手な水音をたてて男が転倒する。その傍らに、額を吹き飛ばされて絶命したコートの男がゆっくりと膝をついた。
ヒールを脱ぎ捨てる。
「早く。助手席へ乗って」
ベネッサが叫び、林道の奥へと銃を撃ち続けながら運転席のドアへと飛びつく。反対側のシートへ裸足のサラが転がり込んだ直後、ベネッサがエンジンを思い切り吹かした。凄まじい音をたててアスファルトの上でブレイザーのリアタイヤが流れ、尻を振った勢いで、限界まで開いた左後部座席のドアのヒンジが嫌な音をたてて折れた。
男達の押し殺した怒号と湿った足音が入り混じり、数発の咳き込むような発砲がそれに続いた。びしびしとリアガラスに蜘蛛の巣が開いていく。
無理な姿勢のままどうにか首をねじ向けて背後を伺ったサラの視線の先で、 停車したままのベントレーの巨大なシルエットの背後から、別のセダンが猛然と発進するのが見えた。
「手錠を、サラ」
言われるままに揺れる車内で両腕をできるだけ伸ばすとダッシュボードに押しつけて、顔を背ける。ベネッサが滑る車を片手で操りながら右手を伸ばし、ハンドガンの銃口を押しつけると鎖の中央を撃ち抜いた。ダッシュボードのプラスティックが四散し、よじれた金属のカフの一つが衝撃で手首の肉に食い込 んだ。サラが呻きながら壊れた右手のカフを引き抜く。
もう一度だけ銃声が背後から轟いた。車のボディのどこかが甲高い金属の悲鳴を上げる。ベネッサはアクセルを緩めなかった。その手がギアを叩き込むと同時に車体がもう一度嫌な横揺れを起こし、それから猛然と加速を始めた。
「やれやれ、腕の悪い連中ばかりで助かるわ。でなけりゃとうに二人ともやられてた」
どしゃ降りの雨の中、滝の様にフロントガラスを流れる雨をワイパーが弾き飛ばす。ほんの一瞬、車内が静寂に包まれた。
「どうして? 」きんきんと痛む耳は麻痺したままで、サラが大声を張り上げる。
「何が? 」
「何もかもよ。私を売ったんでしょ、連中に」
「まあそうなんだけど。今さら謝るつもりもないけどね」
「それが何でのこのこと戻ってきたのよ」
ベネッサが何かを言おうとした瞬間、いきなり視界が開けた。
林道から比較的大きな二車線の公道へと、ベネッサが大きくステアリングを切る。派手なスキール音。背後から数秒ほど遅れて二つのヘッドライトが飛び 出してくるのが、ルームミラー越しにサラにもはっきりと見えた。シルバーの大型セダン。不格好に尻を数度振り、直後に体勢を立て直す。
ベネッサが左手に掴んでいたP229を振って空のマガジンを床に捨てる。
前を見据えたままでステアリングをサラに顎で示した。
「ちょっと押さえてて」 サラの左手が伸びたのを確認して両手を離し、ジャケットの下から新しいマガジンを掴み出した。手早く装填するとそれをサラの膝へ放る。
「落とさないで持っててね、それ」
「何故追いついてこないの。足はあっちの方が速いはずよ」
「やる気がなくなったんでしょ。この天気だし」
「馬鹿言わないで。殺さずに捕まえたいってことじゃない」
対向車のヘッドライトは一台も見えない。街灯のほとんどない無人の道路を疾走しているのは、二台の車だけだ。 郊外の住宅地の灯りが次第に近付いてくる。
「悪くないね」
「なに? 」
「悪くない。あなたとこうしているのがってこと。ラジオでもつける? 」
「最悪のドライブだわ」
ベネッサが笑い、ブレーキを一気に踏み込んだ。ブレイザーの鼻面を急激に右へ切る。ぎりぎりの所で彼らをかすめて前へとすっ飛んでいったセダンが、 慌てたようにこちらへ向かってターンする。胸の悪くなるようなタイヤの軋みとゴムの焦げる匂い。
住宅街のまっただ中へと車は加速を始めた。広く深閑とした道路にはそれでもぽつりぽつりと他の車のテールランプが混ざり始めている。通りを変え、また変えて、走り続ける。背後のどこか遠くで金属と何かのぶつかる衝撃音。
追走する気配は次第に遠ざかっていた。
人気の少ない路地で急停止すると、ベネッサはエンジンは切らずにライトを 消した。グローブボックスを開くと新しいハンドガンをホルスターごと掴み出 す。濡れたジャケットを脱ぐとショルダーホルスターを肩にひっかけた。マガジンを腰の後ろに突っ込む。
「運転を代わって」
「どうする気」
「このまま市街まで戻れれば、奴らもそうそうは発砲してこれないでしょ。J Bにはもう連絡してあるから、あと十分もすればGPSで彼らがこの車を発見してくれる」
ドアミラーを斜めに睨みながらベネッサが首をすくめる。
「あんたは? 」
「わたしの事なら心配いらない。どっちにしても彼に会うのだけはごめんだわ。今度はクビどころじゃ済まなさそうだから」
エンジンの喧噪の中でも、その声は奇妙なほどにくっきりとサラの耳に届い た。
雨は急速にその勢いを弱めていた。油を撒いたような黒い路面のそこかしこ に、街灯の弱々しい光が影を落としている。
運転席のドアを開こうとした腕をサラが掴んだ。そのまま強く引く。
「私と一緒に行くのよ、ベネッサ・ルイス」
「時間がない。サラ、急いで」
「一緒に来て」
「朝になればまた会えるわ」
それでも何かを言おうと身を乗り出したサラの唇にベネッサのそれがほんの 一瞬だけ触れた。すぐに身を離してからにやりとする。「続きはその時に」
接触の悪いワイパーが水滴を弾き飛ばす耳障りな音だけが、車内に響いていた。
サラがベネッサの頬に手を伸ばす。触れる寸前でその指先が止まった。
「じゃあ、ここでもう一度契約して。必ず戻ってきて」
ベネッサが笑いながら頷く。サラが最後に見たのは揺らぐことのない光を湛えた二つの眼だった。
ドアが閉まる。ミラーの中を目で追ったが、その姿はすぐに闇の中へと消えた。 誰もいない。彼女は一人でエンジンの音と雨とアスファルトの匂いの中に取り残される。ここにはもう誰もいない。
運転席に滑り込み、サラはクラッチを繋ぐとアクセルを思いきり踏み込んだ。
傷だらけの黒いブレイザーがしゃがれた怒号を上げて発進する。
ステレオのボリュームを上げる。夜の街路を疾走しながら、彼女は声を出して泣いた。
 
 
 
セダンの所在はすぐに判明した。
追うべき獲物を見失ったかのように、二つの青白いヘッドライトが雨混じりの闇夜の中をゆっくりとこちらへ向かってくる。
壁つたいに近寄るとハンドガンのスライドを引き、彼女は待った。街灯の影に路上駐車している白いバンの車体を背にして腰を落とす。舗道にこぼれたなにかの染みの甘ったるい臭い。雨に濡れた雑草の鋭い匂いがそれに混じってい る。
シルバーのフォードが反対車線を静かに近付いてくる。
フロントガラスはスモークをはったように暗く、中の様子は見えなかった。
運転席の窓がバスケットボールを放り込めそうな距離にまで近付いた時、彼女はハンドガンを構えた両腕を伸ばした。
乾いた音が響くとほぼ同時にフォードがコントロールを失う。糸の切れた凧のようにふらふらと道路沿いの住宅へと斜めに突っ込み、庭先の灌木の茂みに 潜り込むようにしてようやく止まった。
後部座席から二人の大柄な男が転がり降りてくる。彼らが銃を抜いて立ち上 がろうとした直後、さらに断続的に響いた二つの銃声で、いずれも頭部を粉砕されて崩れ落ちた。
住宅に灯りがともる。女の悲鳴と喧噪。にわかに周囲が騒がしくなる。
運転席から中年の男の死体を苦労して引きずり出すと血塗れのシートに潜り込み、ベネッサは車体を後退させた。フロントスポイラーがへしゃげ、縁石に引っかかって派手な軋みとともに外れて落ちる。
ブレイザーが消えた方向と逆に車を加速させながら、パンツのポケットから 携帯を引っ張り出す。
うるさく振動するそれを黙らせると、発信元をたいして確かめもせずに耳に当てた。
ベネッサか、と告げた声はくぐもって聞き取りづらかったが、かすかな吃音に聞き覚えがあった。
「ワンマンズアーミーを気取る柄でもないだろ。娘っこがあまり調子に乗らん方が良いな」
「あんたか。ずっと見てたの?  退屈だったら参加すれば? 」
「そこから周囲一マイルにはもう包囲網が敷かれてる。じきに会えるから安心しろ」
「ブライアント家のお嬢様はとっくに消えたわ。あんた達には残念だけど」
「必要ない」
「そう? 」
「連中の本当の目的はどちらでも良かったんだ。彼女でも、あんたでもね」
ほんの少しの沈黙が彼我の彼方に落ちる。ベネッサが肩で携帯を挟んだまま腕を伸ばし、うるさく動くワイパーのスイッチを切る。雨は完全に止んでいた。
「知ってたのか? 」
「知る訳ないね」
「逃げるのは不可能だ。そこで待ってろ。大人しくしてたら悪いようにはしな い」
「ねえ」
「なんだ」
「あんたは何者? 」
ほんとに覚えていないのか。
男が呟いて笑う。
「あんたは奴の死体を引きずっていこうとしてた。けど、あんたは小さかったから奴の足一本も持ち上げられなかった。だから認識票を一個だけちぎって逃げた。残りのタグはまだ俺が持ってるよ」
「一つ聞いても? 」
「いくらでも」
「サラは安全なの」
「あんたが来るならね」
OK、と頷いてからベネッサが見えない相手ににやりとした。「この辺りで 一番見晴しの良い場所は? 」
通話を切ると、電話を助手席に放る。 窓ガラスの砕けたフォードの運転席でベネッサがアクセルを煽る。雨上がりの夜の生々しく、鮮やかな匂いが車内の血の臭いに混じっていた。

2006.7.17
バーチャファイター ベネッサ&サラ小説の続きです。甘いです。 上のお話も同様なのですが、公式設定のストーリーとは多少…かなり…多大に違う点があります。ご了承のほどを。というか時はゆるく過ぎ、現在令和二年、公式の設定なんてネット上にも残ってなさげ笑。というかSEGA自体が。
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