Shepard × Liara
Sarah × Vanessa その他の思い出
まだ帰ってなかったの。
声の主がこちらを見もしていないことだけは、すぐに判った。
シューズが床と擦れるかん高い音。規則的な軋みとともに揺れているサンドバッグが、彼女と相手との視界を隔てていた。
半地下になったサンルームへ続いている階段の、最後の段差に足をかけたままの格好でベネッサは立ち止まる。
「呼んだ覚えはないわ」
愛想の欠片もない声が、荒い呼吸の合間から届いてくる。
8オンスのグローブに包んだ両拳をサンドバッグに叩きつけながら、サラは 軽くステップを踏んでいる。フックとストレートのコンビネーション。時折そこにローキックの乾いたリズムが混じる。
悪くない。ベネッサは評価を下す。スピードも切れもそこそこ。悪くはない。夜毎のパーティでグラスを揺らしているぐらいしか能のない生粋のお嬢様が、ご趣味のワークアウトで磨いた技にしてはという程度の意味で。
吹き抜けの天井からは痛みを感じるほどに爽やかな午後の陽光が降りそそいでいる。肯定でも否定でもない意志の表明のために、ベネッサは軽く首を振る。
目の前でしなやかな肉体の動きを誇示し続けている女からは、それきり何の言葉もなかった。
階段にもたれかかっているベネッサの影が前へとうすく伸びている。振り子 のようにせわしなく揺れる白いサンドバッグに、それが頼りない陰影を描く様 をしばらく眺めることにした。
「契約はもう済んでるわ」
「私は認めてない」
「あなたのお兄様にそう言って。わたしの口座にはもう前金が振り込まれてる。取りあえず向こう三ヶ月分のね」
ばしん、と盛大に右ストレートを決める音がした。それと同時に全ての動きが止まる。
腕を組んだままベネッサが首を伸ばしてのぞき込むと、こちらを睨んでいるふたつの目と視線が合った。まだ耳障りな音をたてているサンドバッグを片手 で押さえつけながら頭を強くひと振りし、湿った前髪と一緒に汗の滴をふり払っ ている。
早く消えて。
荒々しい息の音に混じるすこしざらついた声はそのまま、不機嫌さだけが三割増しになっていた。
床に放置していたタオルと水のボトルを掴み上げる。グローブのベルクロを咥えてひき剥がしながら、手すりの前で突っ立ったままの銀髪の女の彫像の傍らをすり抜けようとする。
階段を上がっていくその背中に、サラ、とベネッサが前を向いたまま声を放 つ。
「わたしと賭けをしない?」
ほんのすこし遅れて、背後で足音が止まる気配がした。
「ゲームにつきあってよ。それに負けたらとっとと帰ることにするから」
ゆっくりと振り向くとほぼ予想通り、プラチナブロンドのお嬢様は階段に突っ立ったまま、にこりともせずにこちらを見下ろしていた。剣呑な表情は変わらず、しかし、うす青い双眸にはごく微量だけれど怪訝そうな色が滲んでいる。
「ゲームですって」
「ルールは、そうね、ご自慢のその拳で勝負する? 先に一度でも床に膝ついたほうが負けってのはどう」
「...... 話にならないわ」
「そうかな」
「あんたの言う通りにしなければいけない理由はなにもないのよ」
「悪くないと思うけど」
腕をほどいて肩を少しだけすくめてみせ、ついでに笑みをサービスする。そんなことでこの陰険なお姫様の受けが良くなるとは、彼女自身も毛ほども思ってはいなかったにもかかわらず。
「あなたはあの兄上とこれ以上厄介な話し合 いをしなくてもよくなるし、わたしは帰りのチケットを手配すべきかどうか今 すぐ決められる。言ったことは守るわ。それに」
言いさしたベネッサの顔を、ブロンドの女は表情ひとつ変えずに見つめていた。
「どっちにしてもすぐに終わるしね」
違う色合いの沈黙が彼我の間にわだかまる。 返答はしばらくなかった。見上げている視線の先でサラがわずかに位置を変える。逆光の中でその目が細くなる。
「随分と簡単に言うじゃない」
「たしかに簡単ね」
要は、と冷え冷えとした声がベネッサの足もとに降ってくる。「あんたを殴り倒せばいいってことね」
「そうそう」
「いいわ。やってあげる。それであんたのその煩い口を塞げるのなら」
「そうこなくちゃ」
階段を降りてきたサラが、再びグローブを嵌めながら、顎をトレーニングルームの対角線上へ向かってしゃくる。
「そこにあんたの分もあるわ。つければ?」
その方向に首をめぐらすと、窓際に重ねて放置してあるプラスティックのカラーボックスが目についた。グローブや古ぼけたミットがその中に雑然と詰め 込まれている。
「必要ない」
「私はこれで構わない。ここであんたに死なれても後始末に困るの」
ああ、言い忘れてた。 顔を戻したベネッサが首を傾げてから告げる。「ルールその二。わたしからはあなたに手は出さない」
表情と名のつく一切がサラの顔から消えた。至極ゆっくりと。
ベネッサに近づくと、鼻先が触れあうほどに顔を近づけてくる。ごくわずか に上方にあるハシバミ色の瞳と、それより濃い色をした艶のよい頬に向かって ひくく囁いた。
「本気で言ってるの」
「イエス、メム」
呼吸二つ分ほどの静寂が二人の間に落ちる。 面白いじゃない、と小さく呟いてから、不意にサラが薄い唇を歪めた。
「『わ がままで自信過剰なお嬢様』ね」
「よく覚えてるね」
「私をどう扱うつもり? 見せてもらうわ。できるって言うならね」
この屋敷に来てから初めて見るサラの笑顔は、ひどく酷薄で危険な代物だった。
ベネッサ・ルイスは小さなため息を漏らした。それも、自分自身にすら聞こえないくらいの小さな吐息を。
この屋敷にきてからもうすぐ一昼夜が経とうとしているのに、いまだに己の立場が歓迎されるものであるのかそうでないのか、把握することすらできないままでいるからだった。
与えられた部屋の調度や広さに何も問題はなかった。
ヴィクトリアン様式にど派手な南部コロニアル調、その他諸々の建築様式がごたまぜとなっている大邸宅は、趣味の良し悪しはともかくとして、途方もないその敷地面積を誇っていた。
供された軽食やメイドの接遇に至っては、問題ないどころかリッツ・カールトンもかくやという程で、臆面もなく飾られたきらきらしい工芸品や絵画に囲まれてうすぼんやりとソファに腰掛けているだけの自身の姿には、軽い怒りを覚えてすらいた。彼らはいつまで待たせるつもりなのだろう?
勢いよくソファから立ち上がり、しかし何もすべきことのない事実に気がつき、再び腰をおろす。その繰り返しだけで優に二十四時間が浪費された訳だ。
セルフォンのバッテリーはとうに切れており、彼女のハンドガンまでもが岩くれのような顔をしたガードマンの手によって薄汚いロッカーの中に軟禁され ていた。これだけは渡せない、と四角い顎に唾を飛ばしながら主張したにもかかわらずだ。
父さんは彼女によく言ったものだ。友達は選ぶんじゃない、選んでもらうんだと。
選ぶ。
例え人類の滅亡の翌日に麗しい孤島で夕陽を見ながら二人きりになったとしても、ジャーマンシェパードをこれ見よがしに連れまわしているあのゴーレム男だけは絶対に選ばないだろうという自信はあった。 ソファの上で再び腕を組んだ。ついでに無理やり目も閉じる。
出た結論は、彼らは彼女が諦めて出ていくことを待っているのだという事実 だった。
彼女は本腰を入れて待つことに決めた。
午後になり、窓から見下ろす中庭に部屋中の家具を放り投げようかと彼女が 本気で思案し始めた頃に、不意に扉を激しくノックする音がした。
扉の向こうには、殊更に気難しい顔をしてみせた白人の男の顔が覗いていた。
一昨日に訪れたときに初めて口をきいた、この屋敷の所有者であるところのブライアント家の嫡男という人物だった。周囲の連中は彼をJBと呼んでいた。
自分がほどほどに洗練された容姿であることを自覚しているからこそ他人に慎み深く接することのできる男だ、とベネッサは三十時間ほど前に結論づけていた。裕福な一族の一員であることを毛ほども悪い事とも思っていないかわりに、爪の先の垢ほどの信心深さも持ち合わせていない。
そういえばこの家の住人はハウスマネージャーでも家政婦でも、どことなく皆が皆、不信心に見える。 艶やかな飴色に磨きぬかれている年季のはいったオークの床板を剥いでみれば、腐臭のするネズミの屍骸がわんさかでてくるんじゃないかと疑ったが、今それを確かめるほどの余裕はないようだった。
「結論は出たの」
結論? と男がオウム返しにじろりと見下ろす。「その前にあんたに会わせたいじゃじゃ馬がいるんでね」
「じゃじゃ馬? 」
見てみればわかるさ、と男は肩をすくめてベネッサを別室へと誘った。
そこは馬小屋でも何でもなく、窓際に女がひとり立っているだけのがらんとした控えの間だった。
丈の短いモスグリーンのレザージャケットを羽織り、不機嫌そうに胸の上で 腕を抱えたままの格好で、部屋に入ってきたベネッサを瞬きもせずに眺めている。午後の弱い陽光に縁取られた金色の髪と、逆光ではっきりしない、神経質そうな唇の形がぼんやりと白い顔の中に浮かんでいた。
ベネッサは初対面の相手にするいつもの挨拶を口にする。
「よろしく。あなたがサラ? 」
馴れ馴れしく呼ばれたことが気にいらなかったのか、女は右の眉をつりあげ、返事のかわりに組んだ腕をほどいただけだった。
さして長くもない沈黙が室内を支配する。
おいサラ。
JBがぐしゃぐしゃと髪をかき上げながらベネッサの背後を動きまわる。「すこしくらい彼女の話も聞いてやったらどうだ」
ベネッサがちらりと後ろを向き、また正面に目を戻す。
その時、ようやく女が口を開いた。
「話ならもう聞いたわ、ジャック」
私は誰のクライアントにもなりたくないの。
かすかではあるがクライアント、という部分をわざと強調したことをベネッサは認めた。拒否されていることは放置されている時間の長さでとうに知ってはいたが、誰かの口から直接届くのは初めてだった。 「口をきいただけでも奇蹟としか言い様がないね」
ベネッサは今度はゆっくりと時間をかけて後ろをふりかえる。ぎょっとしたように動きを止めたJBに微笑みかけた。
「彼女、相当わがままで自信過剰で傷つきやすそうだから、扱いにくいとは思っていたけど」
再びサラへと視線を戻す。「この調子ならなんとかなりそう」
あああ、と背後で情けない声がした。サラを隠すようにベネッサの前に立ちはだかり、顔を近付けてくる。おどけたように彼女の耳もとで囁いた。
「あんた、シスコに観光のためにやってきたんじゃないんだろ」
「だったら? 」
「今のはやばいな。あいつ、癇癪おこしたらどうなると思う? 」
最後まで言い終わらないうちに、JBの肩に白い指がかかり、背の高いその体が前後にぶれた。
「おい、暴力はいかんぞ、落ち着け、いいな落ち」
目の前に割り込んできたサラに一瞬、ベネッサは構えるべきかどうか迷った。 いくら彼女が体術に習熟しているらしいとは言っても訓練を受けた訳でもな いただの民間人だ。それにこの美しいお姫様の額に半インチの青痣でも残そうものなら、後ろにいるこの男が発狂しかねない。
瞬時にそれだけ考えをめぐらし、結局、悟られない程度に歯をくいしばることにした。
しかし、サラは彼女に手を出してはこなかったし、罵倒することもなかった。
ただ一言、ベネッサの鼻の頭に指をつきつけて、とっとと帰って、と告げた。
間近で見るサラの目は先ほど見たような険しさも獰猛さも失せ、うす青いが 精彩を欠いたその光はどこか沈んで見えた。
生ぬるい湯の雨が、勢いよくベネッサの褐色の肌の上を流れて落ちていく。
わがままで自信過剰で傷つきやすそうな、と言ったのは事前にリサーチしていたわけでもサラの態度を読み取ったからでも何でもなかった。ベネッサは死んでも口をききそうにないような哀れな猜疑心の強い連中には、皆にそう言っ た。
男の場合だったらわがままを無能に変えたり神経質に変えたりする。そうすると、たいがいの場合は彼女と会話をしてくれることになる。その場合、わだかまりがとけるまでの道程はシルクロードよりも長くて気が遠くなるが、それでも完全に空気と同等に扱われるよりかはましだった。
シャワーの温度が幾分低いようだった。それ以上浴びる気にもならず、そのままバスローブをはおると清潔なベッドに腰をおろす。 脳裏に浮かび上るのは、窓際に立っている女の、暗く青い目だった。
ベネッサはどうあっても、何があったとしても彼女を護らなければならなかっ た。否。女を護る立場となる必要があった。そして、それができる者も自分以外にいない筈だった。
けれど。この行為は果たして許されるのだろうか。
十数度目かのささやかな疑いが再び彼女の中に忍び込む。
ベネッサは客間のベッドに横たわって枕に頬をうずめていた。濡れた髪を乾 かす必要がありそうだったが、だが腕はおろか、指一本すら動かない。怠惰な眠気が彼女を肉体の檻に閉じ込めている。
彼女を鎖で罰するものはもういない。そして、彼女を許すことができるただ 一人の人間も。ここにはもう誰もいないのだ。
彼女はかつて待ち続けていた。そして今もまだ待っている。けれど、もう時計の針は回り過ぎている。充分すぎるほどに。
逆光の中で淡く色を失ったままの女の顔の輪郭は、ベネッサが夢にひきずりこまれるその瞬間まで、記憶の中でおぼろに瞬いていた。
翌日。
幾分真面目な顔つきをしたJBがベネッサを中庭に呼び出したのは、まだ朝も早い時間だった。
芸術か何だか知らないが、指先と片目の欠けた筋肉質の少年のブロンズ像の そばの黒い石段に彼は座っていた。近くにベンチがあるのにわざわざそんなところに座る彼は、若干この家に飾り立てられている芸術品に対しての反発があ るようだった。
彼の手には何枚かの書類らしきものが握られていた。
「わたしの事を調べるのに二日もかかったの」
「正確にいうと一日と十八時間くらいだな」
紙を指先ではじく音が静かな目の前の芝生に響く。
「ベネッサ・ルイス、出生地不明。コロンビアで十二歳の頃、元陸軍中尉のH.ルイスの養女になってる。そん時に米国籍取ってるな。軍やSWATへの勧誘を蹴って養父の経営するマーセナリースクールで働いてたと。逮捕歴なし。真っ白だ。偽名を使ってもいなかったし、レジュメ通り、お偉方の警護をしていた 事実も確認した。首席補佐官にどこぞの市長、ハリウッド女優までもか。ほんとかよ」
大袈裟な身振りで手を広げ、にこりともせずに男が告げる。「そんな優秀な女性が、なんでまたこんな不真面目な街までやってきて、よりによってわがままで自尊心の強いわが妹の護衛をしたいとはね」
「自尊心が強いとまでは言ってないけど? 」
そんな話に裏がないとしたら、と彼女の過去を羅列したうすっぺらい紙を見下ろしながら、
「あんたの気がヘンになってるか俺達が狂ってるかどっちかだろ」
ベネッサは石段に座っている彼の隣で肩をすくめる。
「何度も言ってるけど、あなたの妹はある組織に狙われてるし、その組織は以前に起きたあなたの自動車事故にも関与していた疑いがある。ついでに言うと、 昨年に妹さんを拉致したのもその連中って訳。当然ね」
「そのとある組織ってのはあれだろ。何だっけかええと」
「おとぎ話を思い出すみたいな口振りね」
「おとぎ話の方がよほどマシだな」
「記憶がないってのは本当なの。彼女」
ベネッサの言葉に返答があるまで、ちょっとした間があった。
じろりと横目で彼女を眺めてから、がっしりとした肩をすくめる。アイスブルーのその虹彩は、サラのそれとよく似ていた。
「さあな。もう戻ってるだろ」
「そう」
「何故そんな事を?」
「依頼主に関する情報はなんであれ大事」
どうでも良さそうに頷いて、彼は書類を丸めた。それで自分の肩をぽんぽんと叩く。
「で、あんたはわざわざ志願してこの狂人屋敷に出向いてきたって訳だ。最近のボディガードってのは営業もやるのかよ。初耳だぜ」
「わたしがじゃなくてうちのボスが。あなたの一族が会社と自宅の警備を一個小隊並みに強化してるって、同業者でも結構な噂だから」
「うわさねえ」
「金に糸目をつけずにってね」
「まあ、仕方ないところだろ。実際、ここ数カ月で何人かガードマンを潰しちまったしな」
事も無げにぽりぽりと顎を掻いていたが、「確かにちょいと人材不足ではある。あんたは何が目的だ。金か? 」
「もちろん」
「何ができる? 」
「何でも。ここの警備全体の再評価、必要装備の検討に入手ルートの手配。ここに配備されてるうすのろ連中の指揮と基礎訓練。それに」
「それに? 」
「あなたの大事な妹の防弾ベスト代わりにもなれるわ。それがお望みとあればの話だけど」
眠気を催すような陽光が、二人の肩に降り注いでいる。
サラが数歩下がり、顔の前に両拳を構える。
平然とその視線を受け止めながらベネッサが両手の指をこきこきと鳴らし、肩を軽く回した。構えはせずに、両腕をそのままアーミーパンツの横に垂らす。
サラの革のグローブがぎちりと軋んだ。
何の予備動作も見せずに左のショートパンチがベネッサの顎に放たれる。軽く首を引いてかわした鼻先数ミリの距離に、鋭い風圧が走り抜けた直後、続けざまのローキックがベネッサを襲ってきた。もろに膝頭を狙ってきたそれを、 咄嗟に右に体を捌いて受ける。
踏み込んで十分威力を殺したつもりだったが、太腿にぶち当たった途端に鈍 い衝撃が走る。
ベネッサの上体がぐらりと揺れた。
そのこめかみを狙ってサラの肘が吸い込まれるように突き刺さる。スウェイ が間に合わず、ベネッサが左の掌底でそれを受け流す。ぱん、と肉のぶつかる場違いに明るい音が響いた。
ベネッサの顔から笑みが消える。
二人の立ち位置が完全に入れ替わった。
「手加減してるふりをするんだったら」
サラが不意に口を開いた。 わずかに首を傾げたベネッサの目の前で、その薄い唇がつり上がった。「もっと上手くやれば? 」
言葉が途切れるより速く、サラの背中が沈み込むのが見えた。
凄まじい勢いで繰り出された後ろ回し蹴りに銀髪を数本ちぎり飛ばされながら、ベネッサが猫の様に体を低くし、音もなくサラの懐へ潜り込む。
腰を伸ばしざまベネッサが両腕を構えたのと、サラの右拳がその顔面を襲ったのはほぼ同時だった。
思いきり息を吐きながら、ぎりぎりで頬をかすめたその右手首を掴む。回り込んで左腕でサラの右腕を絞り上げながら、その膝裏を足で薙ぎ払った。
肉がフローリングを打つ鈍い音が響く。直後、流れるような挙動とともに体重の乗ったベネッサの膝がサラの背に喰い込んだ。
うつぶせになったサラの口が声もなく大きく開き、呼気の塊が吐き出される。
その右肩と肘とが完全にロックされていた。 食いしばった歯の隙間から押し殺した悲鳴が漏れる。
半ば無意識の動作でその肘を折りかけていた自分に気づき、ベネッサが思わず手を緩める。途端にその腕を振り払い、ベネッサの体の下からサラが転がり出た。
荒い息とともに起き直ったサラの目の前で、ベネッサが立ち上がる。殊更にと思えるほど、ゆっくりとした動作だった。
ぽんぽんと両掌をアーミーパンツの尻ではらい、さて、と褐色の腕を組んだ。
「まだ続きをやる? お嬢様」
低い声は苦笑を少し含んでいるように聞こえたが、その目は全く笑ってはおらず、サラの顔も見ていなかった。その視線が先程極められたばかりの己の右腕に注がれている事に気付いて、蒼白なままのサラの頬がほんの一瞬、強ばっ た。
「サラ? 」
「賭けはあんたの勝ちよ」
ぞっとするほど表情のない声だった。剣呑な光を宿してベネッサを睨みつけていた双眸から、ふと力が抜ける。顔をそむけると束ねていた髪をうるさそうにほどき、ぐしゃりとかき上げた。「好きにすればいいわ」
階段を上がっていく後ろ姿に向かってベネッサが少し口を開きかけたが、結 局は口を噤んだままだった。
主のいなくなったトレーニングルームで、静かに腕をほどく。
ふと気付いて、右の頬をゆっくりと親指の腹で撫でる。見下ろしたその指先には薄く血がついていた。
ベネッサの眉が上下する。
「好きにしろ、か」 吐き捨てるように呟くと、吹き抜けの天井にある高い天窓を見上げる。ガラス窓はどこもかしこも磨き抜かれており、西海岸の陽光は何事もなかったかのように彼女の頬に暖かい粒子をまき散らし続けていた。
「悪くないね」
更に数日が何事もなく過ぎた。
JBのお墨つきがあったお蔭で、ベネッサはこの邸宅に関する警備についての幾つかの権利を得た。それによって彼女が屋敷内を出入りすることに住人も使用人たちも異を唱えなくなった。が、その待遇はせいぜいが動き回る警報装 置か人格のない監視カメラと同等のものに過ぎなかったのも事実であり、実際、 ベネッサ自身もそう扱われることを望んでいた。
当然のことながらサラも彼女を無視し続けた。
まるで空気の様に。そこいらを始終うろつき回っている黒い毛皮をしたジャー マンシェパードの一匹か何かのように。 サラの居室は、家人たち——と言ってもこの屋敷にはJBとサラ、それに彼 等の祖父以外には住人の姿を見かけることは殆どなかったが——が暮らす南向きの古びた別館の、最上階のどんづまりにあった。大昔は使用人部屋だったらしいそこは、採光のよい斜めの天窓と、だだっ広いその空間以外には、何の利点もない殺風景な部屋ではあった。
彼女がもう少しマシな、つまりは警備のし易い階下の部屋に移ることを、ベ ネッサは何度かJBに進言したが、その度にのらりくらりとかわされた。最後にはいつも『猫は気に入りの昼寝場所を一生変えない』というような意味の台詞で片付けられた。その代わり、勤務中にはスーツを着るべきだというJBの 意見を、彼女は拒否し続けることにした。
ベネッサはその部屋の控え室代わりになっている、ごく狭い隣室で眠ることを要求された。
春遅くには珍しい暴風雨の夜。
ローテーブルにエンジニアブーツの踵を乗せたまま、ベネッサは耳を澄ます。 膝の上には油染みのあるぼろ布と、古いハンドガンのパーツが幾つか。ストリッピングは就眠前の儀式のように染み付いた習慣だった。
雷鳴が遠く響き、かすかな震動が窓を揺らす。次第に近くなっている。
うなじの産毛がちりちりと逆立った。雷の音はいつもの記憶を呼び覚ます。
誰かが悲鳴を上げている。悲鳴は少女のものの様でもあり、老女のそれのようでもあった。嘆き女の泣き声にも似て、細く高く伸びては消え、消えてはまた 始まる。
深夜をとっくに回り、隣室の気配は静まっていた。 夜毎に彼女が怯えていることに、とうにベネッサは気付いてはいた。
何に対して。サラは何に怯えている? 息を潜め、声ひとつあげず、呻き一 つ漏らさずに。 誰かの恐怖をたっぷりと含んだ粒子が湿った大気に混じり、それは馴染み深い金属の匂いのようにベネッサの鼻腔を刺す。
まるで血の匂いの様に。
指が滑り、スプリングの一つが膝に落ちた。拾い上げようとして、またそれがぽとりと落ちる。たとえ眼を閉じていても間違えるはずのない分解作業に手間取っている。
親指の爪を軽く噛みながら、残りのパーツをさらいあげるとテーブルに放る。
ヒップホルスターに予備のハンドガンを挿すと、立ち上がった。
窓に近寄ると、暗いガラスの表面を大量に流れていく水滴を眺める。そこに映っているのは、鋭い表情をした褐色女の顔だ。彼女は何に怯えている? 爪をぼんやりと噛み続けながら、ベネッサは思い出す。思い出そうとして失敗する。あの時わたしは幾つだった? 十二? 十三歳。父さんをゴミのように殺した連中。 わたしはもう待たない。ただ黙って怯えている事はしない。 父さん。
ベネッサはその映像に向かって血の混じった唾を吐きかける。 頭の奥底で、うるさく耳鳴りが騒いでいた。
雷雨に叩かれ続けている窓を見捨て、猫の様に音もなく廊下へ滑り出る。隣室へと続くドアは相変わらず静まり返っていた。
想像した通り、そこには鍵はかかっていなかった。明かりは全て落とされている。後ろ手にドアノブを閉めたまま、天窓から漏れるわずかな光に網膜が慣 れるまで、彼女は辛抱強く立ち尽くしていた。
ただ一つだけ予想と異なっていたのは、サラが起きていたことだった。
ベッドの端に腰をかけたまま、膝に両肘をついた格好でこちらを見据えている。薄闇の中で彼女の白っぽいシャツの輪郭だけがおぼろに燐光を放っていた。
それが呼吸につれてわずかに上下している。 獣の素早さでベネッサはサラに近付いた。そのままベッドに押し倒す。
抵抗はそれなりに激しかったが、乱れたシーツにサラの両腕を串刺しにするまではたいして時間はかからなかった。
金色の髪に強く顔を押しつけると鼻腔に彼女の薄い体臭が拡散し、それがベネッサの身体の内側にまた別の熱を生む。
乱れた強い呼吸の音を間近に聞きながらその耳元で囁く。声に出さずに。 あなたは何を見たの。あの場所で。
応えは無い。当然だ。
生暖かい息が不規則にベネッサの瞼にかかる。闇の中でも青い二つの眼が下からベネッサを威嚇していた。噛みつくように唇を重ねるとそれはやはり血の味だった。
「何のつもり? 」
「賭けに勝ったのはわたし。好きにしろって言ったのはあなただしね」 喘ぎと一緒にサラが罵り文句を吐き捨てる。あんたの目的はなに。
悪いけど、分からない。
脳味噌が腐れてるの? 眉をわずかに顰めて、身体の下に組み敷いた女を見下ろしながらベネッサは考える。
己自身にすら不可解な衝動がどこか奥深くに巣食っていて、それは次第に枝を伸ばし、背筋を容赦なく這い回り、ちくちくとした不快感をからだじゅうの そこらかしこに伝えている。 サラの左手が下から伸び、不意にベネッサの色素の薄い髪を掴むと引きずり寄せた。そのまま深く口づけてくる。
どこかにある筈の答えを探して、ベネッサはじっくりと獲物を咀嚼し始めた。
それから三日間、雨は続いた。
世界は変わらないままだった。顔を合わせる度にJBは笑えないジョークを言い、誰かが宝くじに当選し、市街地ではちょっとした停電騒ぎが起き、訓練中の犬が一匹腹をすかせて逃げ出した。使用人たちは相変わらず空を見上げてぼやいていた。
そして、夜になって風が強く窓を叩く度に、ベネッサは明かりの無い部屋で サラを貪った。
「明日は出かけるわ」
裸の白い胸に幾つか散ったうすい色の痣を曝したまま、サラが告げる。
その目は瞬きもせずに闇の中を見つめていた。
「JBに聞いた。マンダリンでレセプション? 」
「くだらないわ」
くだらない、ともう一度呟いて、身体の上からベネッサを押しのける。床に落ちたシャツを拾うと袖を通し始めた。
「問題は何もないよ。わたしも行くから」
「勝手にしたらいいわ」
「そうさせてもらうつもり」
ゆっくりと大型の猫の様に伸びをしてベネッサが立ち上がる。うすく汗をまとった浅黒い肌が闇夜に溶け込み、すぐにまた現れる。
ベネッサ。
服を着けながらベッドを振り向くと、サラは髪をまとめてバレッタで留めているところだった。
「クライアントとこんなことばかりしてる訳? 」
まさか。ベネッサが唇を歪ませる。「まあ、バレたら即クビだね」
「あんたのボスに? 」
「JBによ」
「私が言えばそうなるわ」
「言わないよ。あなたは」 その台詞に、ふん、とサラが鼻で嗤った。「つくづく頭にくる女だわ」
「そう? 」 アーミーパンツのポケットに両の親指をひっかけると壁によりかかった。
その目の前をサラが通り過ぎ、部屋の奥のどこかから水のボトルを持って戻ってくる。その一部始終をベネッサの茶色い目が無遠慮に眺めていた。
それは、と顎で尋ねられてから、サラの視線がそこに刺さっているのに気づき、反射的にベネッサの視線が自分の胸元に向いた。 黒いボールチェーンの先に、光沢のないドッグタグがひとつだけぶら下がっ ている。
「これ」
「そう」
「見ての通りの代物だけど」
「名前があんたのじゃないわ」喉を反らせてボトルから水を飲みながら、サラが横目で告げる。
「親父のだから」 へえ、と嘲笑う気配がした。
「大事にしてるのね。お守りのつもり? 」
「いいえ」
ほんのわずかな間、奇妙な沈黙が落ちた。
ああ、そうだ。うつむいたままでふと笑い、ベネッサが首を傾げる。ゆっくりと顔を上げたその口元はまだつり上がっていたが、そこに滲んでいる表情は、 笑顔とは全く別の何かだった。
「あなたに言っとこうと思うんだけど」
「なに」
「あなたが捕まってた傭兵組織、あれね。わたしもそこにいたんだよね」
「...... 今何て言ったの? 」 それには答えずにひょいと片手を伸ばすとサラの掌からボトルを取る。それは既に随分と軽くなっていた。
「十二歳の時にそこから這い出てきたの。ついでに言うとわたしの義父は連中に殺された。JBは知らないようね。まあ、そうだったらわたしがここにいる筈もないけど」 残りを一口で飲み干してから、無言のサラの目の前で空のボトルをぷらぷらと振ってみせる。
「ただのネズミじゃないとは思ってた。狙いは何。私? ジャック? 」
「違う」
「あんたは何者なの」
「ただのなりそこない」
「どういう意味よ」
「あそこで叩き込まれたのは人殺しの技だけだし、それにわたしは失敗作だったから」
ボトルを右手で握り潰し、ベッドの脇の屑篭に放る。それは上手く入らずに 軽い音をたてて床に落ちた。
その間じゅう、サラの視線は揺らぎもせずにベネッサに突き刺さっていた。
「つまりはこういうこと。わたしはあなたを利用することにした。ここにいれば、わたしはいつかは連中と接触できる。まあいつかはね。納得でしょ」
「糞みたいな話」
「まったくね」
「もういい。聞きたくない」 サラがのろのろと顔を背ける。ベネッサを押しやるように片手を振った。話が済んだなら出てって。ドアはそこよ。
サラ。 壁にもたれたまま、のんびりとした口調でベネッサがその背中に声を放る。
「忘れるってのは、どんな感じ? 記憶がないんでしょ、あなたには」 ほとんど反射的に振り返ったサラの表情がみるまに歪んでいくのを、ベネッサの二つの目が容赦なく見守る。
勢いよく振り上げられたサラの右手首が空を切る。ベネッサの左手が空中でそれを掴み止めていた。
「あそこで何をされたの。誰に会って、何を見たの。それとももう少しぐらい は思い出した? 」 掴まれた手首が軋みをあげる。眉をしかめて身じろぎしたが、ベネッサの腕 はびくともしなかった。
「でもあなたは怯えてる。昼も夜も。夢の中でも。血の匂いはまだ残ってる。そいつは決して消えたりなんかしない。サラ。気付いていないのなら教えてあげてもいいけど」
「あんたに何がわかるっていうの」
何も。肩をすくめ、ベネッサが静かに告げる。囁くように、歌うように。ほとんど闇に溶けていく様な声で。
「あなたを殺しはしない。誰にも殺させない。その代わり」 顔を寄せ、彼女の青白い頬に触れるほど唇を近づける。「あなたから離れるつもりはないわ。あなたが嫌だと言うなら話は別だけど」
「イカレてるわ」 あんたはいかれてる。その声はごくわずかな震えをはらんで響き、ベネッサ の耳に甘い残響を残す。
「そうかも」
たぶん、その通りには違いない。
どうして、とサラの声が届く。どこか遠くから。彼女の腕の中から。
何故なのかなんて彼女自身にも分からない。分かるはずもない。けれど、ご く簡単な答えもそこにはある。ベネッサは彼女の肩を引き寄せて、その耳元で 笑いながら囁く。
「あなたはわたしの主人で、わたしはあなたの影だから」