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out of the rain

 

眠れなかった夜に思い出すのは、あの時聞こえなかった言葉だ。
白い稲光が明けの空を切り裂き、大気に雨の匂いが混じる。開け放しの窓からなだれ込むのは肌を刺す濃い闇で、彼女は横たわったまま、ベッドの上でその表情を隠しておくことができる。
傍らで眠る浅黒い肩が逆光にその輪郭を浮かび上がらせ、直後に闇に溶ける。
その様を息をひそめて見つめる。シーツに半ばが隠れた滑らかな肌がわずかに上下する。彼女はこちらに背を向けて胎児のように手足を縮め、自分の首を抱え込むようにして眠っている。
ベネッサ。ちいさく名前を呼んだが、彼女は目を覚まさなかった。
眠りに絡めとられている女は、彼女からも、彼女の視界に入っている全ての世界からも切り離されており、それ故にどこにも存在していないも同然だ。彼女の不在にサラは痛みを覚える。
けれどこのベッドで泣いていたのは、この美しい肌をした混血女の方だった。ほんの数時間ほど前の話だ。
最初は泣いていることに気づかなかった。ただ涙を流しているだけだったので。目を覚ましてからベネッサは己の涙に狼狽し、ほんの少し笑いながらさらに泣きじゃくった。
抱き寄せる肌の手触りは確かな二人の境界を、決して混じり合うことのない二つの肉体を確認するだけに終わる。それもいつものことだ。弓のように反り返った背骨の形も、視界が光を失い何も見えなくなる瞬間も、指先に絡んだ髪も、何の手助けにもならないことを知っている。肉体の伝えてくる気まぐれな感覚はそこら中に不在の刻印を刻みつけていき、穏やかに絶頂しながらサラは死の影の背中に爪を喰い込ませる。いつもいつも。
記憶の中で彼女は彼女の名前を呼ぶ。過去とは白茶けて手触りの曖昧な、ひとつながりになった精緻な紋様の織物のことで、あらゆる時間はその中へと呑みこまれ消化されて拡散していく。地に降る雨のように。冬の朝の吐息のように。
雷鳴が遠く轟き、鋭い金属の匂いが強くなる。
かさこそと鳴るシーツの下でベネッサの背中に体を寄せる。湿った体温がただ一つの救いのようにサラの裸の腹部を暖め、彼女はその温度に取り縋る。
涙の理由は知らない。彼女が泣くのを見たのは初めてだった。
ベネッサはただこう言っただけだ。あなたは怖い? と。
それきり黙って、濡れて光るハシバミ色の瞳でこちらを見ていた。
怖くなんかないわ。
サラは子供じみた嘘をつく。私には恐怖はない。私は怯えてなんかいない。音韻を与えられた嘘は空中に漂って耳朶を打ち、なじみ深い穏やかさでもって彼女の全身をすみやかに包み込む。
わたしは怖いわ。ベネッサの伝える低い静かな振動がサラの胸郭を震わせる。そんな時はさ、わたしは誰かを憎むことにしてた。憎悪で胸が張り裂けそうになると、痛みと怒りで他のことは何も考えなくて良くなるの。餓鬼の頃はいつもそうだったわ。何も感じない。何を見ても何をしても。自分が傷つけられても誰かを傷つけても。それってまるで。
腕の中でその声が途切れ、ベネッサがどうともつかない風に頭を一つ振る。それってまるで死んでるのと同じだわ。
サラは彼女に向かってもう一度囁く。過去のどこか手の届かない場所で同じ言葉を告げたように。
今のあんたはこうしてここにいるわ。それで充分よ。
けれど、それは本当に届いたのだろうか。
白い光に瞼を閉じる。
開く。
彼女の顎の陰影。体の輪郭。その唇はサラの頬に口づけることもできるし、いつものように辛辣な優しさを嘯くことも、冗談めかした悪態を吐くこともできる。けれど今はその全てが沈黙したままそこにある。かすかな呼吸の音だけを耳元に残して。
彼女の涙はサラの内部に鋭いささくれを残し、それと同時に奇妙な安堵感をも生む。
お互いの肌の温かさに怯えているのなら。
銀色の髪を撫でながらサラは考える。二人分の重さを宿した一人きりのベッドの上、窓の外ではまた白い閃光が無音の空を斜めに裂いて消える。ただ抱き締めあうことでこれほども恐怖しているのなら、私たちは何のためにここにいる? もちろん教えられなくても分かっていることもある。どれほど怯えようと、あるいはそれが最初から存在しないかのように振る舞おうと、死は常に等しく私たちを気にかけてくれている。私たちの思惑などには委細構わず。
けれど、彼女が怯えているのは本当に死の恐怖なのだろうか。
おそらくはベネッサは死など恐れていない。誰かの肉体を眉一つ動かさず蹂躙することができる代わりに、彼女は自分自身の命にさえ毛ほどの重みも感じていない。
それはきっと、なにかもっと単純なものだ。単純で、そして悪性の瘡のように根深く意識の奥底に枝を喰い込ませているもの。
記憶は手触りの曖昧でところどころ織糸のほつれたひとつながりの織物だ。
ずっと眺めているとその紋様の始まりと終わりが分からなくなるのと同様に、サラはその前で途方に暮れている。その代わり、誰であれ、失われた時間は等しくいとおしむことができることも知っている。
遠く近い暗闇の中で彼女が何かを告げ、過去のどこかで同じ言葉が繰り返され、サラは聞こえなかった筈のその声に耳を澄ます。遥か彼方から雷鳴が届くまでの沈黙を指を折って数えるように。
ベネッサが身じろぎする。身体の前に回されたサラの腕を引き寄せてきた。手首を抱え込むようにして深く深く息を吐く。子供のように。年老いた犬のように。
顔を覗き込むと彼女は目を覚ましていた。サラはその顎を引き寄せる。
唇を重ねる時、ベネッサが声をたてずに笑った。
眉をひそめるサラに向かって、かすかに唇を歪めたままで彼女が告げる。
あなたの言うことなら信じられるかもって思っただけ。
ほんの少し強くなった風が窓を軋ませて過ぎる。
シーツに再びやわらかく背中を押しつけられ、彼女はその肩越しに、雨が降り始めたことを知る。

2007.12.18
バーチャファイター ベネッサ&サラの番外編です。ごく短いです。次回作のプロットみたいな感じです。
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