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Worry About You

 

 

誰かがくれる幸せなんて幻想よ。
ピアスをひとつだけ通しながら彼女は言う。ほんとの幸福っていうのはね、そんなものなくても幸せなんだって気づく事なの。
私が何も言わないうちに、鏡へ向かったまま、彼女は苛だたしげに左手の指をひらひらさせる。

「サローヤンよ」
「今度は蘊蓄ですか」
「読んでないわよ勿論。このあたしが本なんて読むと思う?」
「いいえ」

彼女が笑い、私は壁に視線を戻し、それからまた窓を眺める。ダマスク柄のぶ厚いカーテンがなければ、高台にあるこの邸宅からは海岸線を見下ろす夜景がよく見える筈だった。
「ああ、あなたたちのことを言ってる訳じゃないのよ。誰だって、そうね、鎖で地面に縛りつけられていたいって願う時期があるものでしょ」
虚像の女は首を傾げてこちらを眺めている。うなじには女の真実の年齢が現れる。「ま、あたしはそんな趣味ないけど。その手の甘ったるいセイシン的黎明期はとうに過ぎてるの」
彼女の視線は鏡を通じて私の手元に注がれている。
黎明期だか氷河期だかはどうでも良いことだとしても、今現在の彼女の髪は確かに美しかった。ブラシで整えられ艶を含んだサテンブロンドが、惜しげも無く肩の上でざっくりと切りそろえられている。
「一つだけ確認しても? レディ」
それやめて。彼女が肩越しにブラシを振る。「モフェット夫人なんてのも最悪。マギーでいいわ」
「一週間でしたね」
「ええ」
「この会期中にあなたに何らかの危険が迫った場合、私はどんな手段を取っても良いと?」
鏡の中の青い瞳と目が合う。それらがひとつだけ瞬きをした。
「あの子があなたを勧めたんだから」
「サラ?」
「それで大体の所はわかるわよ。そうでしょ?」
少し黙った私の表情を見咎めたのか、薄い色素の髪を纏った顔が振り向いた。「何でも好きにおやりなさいな」
と、言いたいところなんだけど。うすい唇を歪める。
「警察沙汰には決してしないように。これだけが条件よ」
「それは難しいですね」
「無理ってことはないでしょ」
「あなたの安全を保証しかねます。それでも良いのなら」
「それでいいのよ。それ以上も期待してないわ」
夫人が立ち上がり、部屋の奥にある小さなビューローに近づく。
引き出しの中をしばらく引っ掻き回し、何かをようやく取り出した。皺のよった薄青色の封筒と一枚の写真。写真だけが目の前に突き出される。「ダグラス・ モフェットよ」
あたしの元カレ、という気のない台詞がその後から降ってくる。
それが、彼女と長いこと離婚調停中の間柄である夫の名前だということぐらいは覚えていた。
映っているのは大柄だけれどもひょろりとした中年男だ。穏やかな伏し目と白髪混じりのダークヘアは、どうみてもタブロイド紙の見出しを派手な文句で飾るような人種には見えない。某大手商社のエグゼクティブ。そつのないスーツとジョークのセンスを身に纏って、週末にはゴルフバッグを積んだ新車のアウディやらBMWやらを転がしているような連中。
「この男が?」
「ヒョウロクダマと思ってる? でも今の彼には失うものなんてないのよね」
「彼の今の家族は」
「十六になる男の子が一人いるわね。前妻の子よ。あっちに親権は取られてしまったけれど。ああ、とっくに両親は他界してるわ」
「理由を聞いても?」
「何の。あたしと彼の不仲の?」
「ええ」
「何もかもよ」
彼女の声はどこか楽しげだ。「あれだけ何もかもあたしと正反対の男ってそうはいないわ。朝食に卵をゆでる時間から、お気に入りのティッシュペーパーの銘柄に、ベッドの中でのお好みまで。きっと青信号で並んだら最初に出す方の足だって反対だったに決まってるわ」
で、問題はね。
サイドテーブルのシャンパンフルートを人差し指と親指だけで危なっかしくつまみ上げる。赤い舌の先がほんの少しだけ琥珀色の液体を舐めた。
「あたしと正反対の彼はいつだってあたしが大嫌いだったくせに、よりによって最後の最後に宗旨替えしちゃったってことなの」
見つめている私の前で、女が不意にこちらを向く。封筒を片手で振ってみせた。
「これね、彼からの恋文。彼との話し合いに応じなければ、この講演会とパーティをどんな方法を使っても妨害するんですって。あなたはどう思うかしら?」



呼び出し音を十三回鳴らしたところでサラが捕まる。上出来の部類。
「一つだけ言わせてもらうけど」
『…どうしたのよ』
「今何時だと思う?」
『それは私の台詞よ。ちょっと待って、灯りをつけるから。…で。何がどうしたって?』
「レディ・モフェットは最悪の依頼主ってこと。最大限に要約するとね」
『そんなことなら知ってるわ』
「有り難いね」
『どうせ、彼女お得意のペシミスティックな幸福論を聞かされてたんでしょう』
「他にもね。あなたとあなたの一族についてみっちり講釈されてたよ。なかなか面白かったけどね」
『お互い様よ。私たちだって彼女たちのこと年中こきおろしてるから』
「血の繋がりってのは美しいね」
『それより彼女だけど、どうしてる?』
「どうって」
『元気かってこと』
「あの酒乱ぶりが元気の象徴としたらって意味では」
『なら心配はなさそうね』
「え?」
『彼女がアルコールを切らすなんて、ガス欠のタクシーよりもあり得ないのよ』
「頭も痛くなってきたわ」
『アスピリン飲みなさい。ああ、ほんとにこんな時間?じゃあね、切るわよ』
「卑怯者」
携帯を切ってからふと気づく。何だって彼女はいつも自分からかけてこないのだろう?



ボディガードを頼みたいの、と彼女は言った。ほんの三日前の話だ。
うすい湯煙の向こうで、彼女は大理石のワールプールバスに浸かったまま窓の外を眺めている。ガラス窓の彼方ではごく淡い色彩を地平に残して、夕闇が世界にその版図を拡大しつつある所だった。
私は、だだっぴろいバスルームの隅でカウチの上に足を投げ出していた。壁の液晶テレビは沈黙したままで、空調はほどよく効いていた。サイドテーブルには背の高いグラスがうっすらと汗をかいたまま手つかずで放置されている。実に申し分のない光景。
「聞こえた?」
「何の話?」
「言った通りだけど」
「誰の」
「私の叔母」
振り向いてたっぷり二呼吸ほどの間彼女の表情を観察してみたが、サラは知らん顔をして爪の手入れをしていた。
「あなたの親戚なんだったら、もっとまともな警護人だって選り取りみどりでしょ」
「まとも?」
「普通のって意味」
「私が勧めたからよ。彼女自身は警護なんていらないって言ってるわ」
「どうしてそんなことを」
どうしてって。
本心から何故私がそう言うのかが分からないと言った様子だった。彼女が緩慢に首を振る。「あんたの腕は良く知ってるわ」
「忘れてた。もう七時?」
「帰ることなんてないわよ。兄貴を気にしてるのならね。どうせ顔は合わせないんだから」
「礼儀ぐらいは弁えてるつもり。気にした覚えもないけれど」
返事はない。
水音とともに広いバスタブの中で彼女が姿勢を変える。この邸宅にある調度品は大概の場合、馬鹿馬鹿しいほどの巨大さを誇っている。金の獅子のたてがみのような髪を軽く振り払い、雫を飛ばすと爪やすりを置いた。
「彼女はサウサリートに住んでるわ」
こちらを向いた彼女としばし目が合う。めずらしいことにすこぶる機嫌が良い。裸足で地雷原に放り込まれた気分。「いつでも送ってくわよ。あんたさえ良ければ」
「ちょっと待って」
「楽な仕事よ」
「まさか、一ダースのアフガンハウンドの散歩係とかじゃないでしょうね」
「叔母は画廊を幾つか持ってるんだけど」
指先を揃えて爪の出来映えを眺めながら、「最近ちょっとした美術館を作ったらしいの。彼女の寄付でね。その記念式典とやらをするそうなんだけど。でもどうやら彼女、誰かに脅迫を受けてるらしいのよ」
「脅迫?」
「詳しくは教えてくれないわ。彼女はあまり構わない人だから。それで、パーティのある前後の数日間だけでも身辺警護をつけるように、私が勧めたって訳」
「パーティね」
「そうよ」
「一ダースのロットワイラーの散歩の方がまだマシ」
「ベネッサ」
「プロの頭数が足りないのなら、いくらでも紹介するのに」
「彼女が無防備にしてるのが気になるのよ。それよりも」少しだけ口をつぐむ。「私がそうして欲しいの。叔母には随分と可愛がってもらったし、大事な人だからよ」
再び沈黙。それにまた水の跳ねかかる音。
「何時からなの?」
「あと三日はあるわね」
できる限り盛大に溜め息をついたが、聞こえたかどうかまでは分からなかった。
雑誌を床に放って立ち上がった。バスタブに近寄る。滑らかな背中から大量の雫をこぼしながら立ち上がろうとしていたサラが、眉をひそめて振り向いた。
「まあ、その件については」
バスローブに伸ばそうとしている濡れた腕を押しとどめる。「もう少し考えさせてよ」
「すぐ決めて」
「とりあえずは、あなたの報酬次第ってことかな」
サラの指が私のシャツの胸元を掴むと無造作に引き寄せる。ボタンを器用に外していきながら、彼女がほんの少し顔をしかめた。「無粋なことを言うものじゃないわ」



夜が長いなんて何処の間抜けが言い出したのか。
あてがわれた一室でローテーブルにとり散らかったコピー用紙の山を眺めながら、私は何度目かの伸びをする。傍らに放置した携帯はさっきから沈黙したままだ。
冷めたコーヒーの残りを口に含んだ途端、ドアの開く気配がした。
振り向こうかどうしようかと考えている間に、斜め後ろから足音の主が現れる。
「退屈してるかと思って来てあげたのよ」
にこりともせずに真上から告げられた。その右手にはまたもやグラスがおさまっている。ぬるい苦い液体を飲み下した私の目の前を白い指先が横切った。それは? という気のない声と同時にテーブルを指される。
美術館が臨時雇用した警備会社は、それなりに名の知れた組織だった。彼らが提出してきた計画書の山の中から一枚を適当につまみ上げると、傍らに突っ立ったままの彼女に振ってみせる。
「この全てに目を通しましたが、とりたてて不備はないですね。優秀な連中ですよ」
「あれはスポンサーを納得させるための必要経費よ」
喉の奥で笑ってソファに腰を下ろす。今夜の女主人は群青のシンプルなチューブドレスを着ていた。「彼らにはあの手紙のことは教えてないわ。当然でしょ」
「賢明とは言えないな」
「あなたならそうする訳?」
わずかだが、彼女の声には時々掠れる癖があった。半円を描いたソファの中程で、脚を組んだまま顎を反らせてこちらを見ている。私の言葉に不興を催したという訳でもなく、さしたる興味を引かれた風でもない。
「明日使う車も見せてもらえますか」
「どうぞ。キーならマネージャーに言うといいわ。この家のことだったら何でも好きにして頂戴」
揺れるロックグラスには透明な液体が三分目ほどまで注がれている。持ち主の表情は至極穏やかだったが、まだ油断はできない。
「無駄足だったと思ってる?」
「そうなるのを祈ってるだけです」
「明日からのあなたはあたしに張り付いてさえいてくれたらいいの」
「仰せの通りに」
「じゃ、今から予行をすればいいわ。相手をして頂戴。あんまり暇なものだから眠れないのよ」
そんなことまでは契約外だ。
グラスの中身は何だろうかと危惧し始めた私の前で、彼女が首をすくめた。何が言いたいかぐらいは分かったらしい。
「軽い寝酒よ。ただのキルシュヴァッサー」部屋の隅のカウンターへと振り向きかけ、またすぐに戻る。「ああ、仕事中だったわね」
「飲めないんです」
「ほんとに?うそ」
首を振った。
形の良い眉がひょいと上がる。さして面白くもないジョークを聞かされたような表情だった。
「あなたたち、夜は二人してホットミルクでも飲んでるって訳? ずいぶん可愛らしいこと」
緩慢な動きで彼女の右手の指先が、空中に線を描く。「サラは子供の頃からずっとそれだったわよ。そうそ、仕上げにハチミツをひとさじ。よく作ってあげたものよ。ライナスの安心毛布ねあれは」
今はどうだかしれないけど、と言いさして、ふと口をつぐんだ。
彼女の表情はよく動く。けれどその下にもう一つ、薄いが堅固な被膜のようなものがある。それが何かは読めないままだった。
私はペーパーフォルダの山の一つを片付けるためにゆっくりと腕を伸ばす。
「彼女は飲まないんですよ。飲めないんじゃなくてね」
「あらそう。下らないこと」
最後の紙切れをフォルダの中に放り込むと脇へ押しやった。目を上げる。斜め向こうから険のある瞳がこちらを覗きこんでいた。
「あなたが来るってサラから聞かされて、楽しみにはしてたのよ」
誰かに良く似た青い色彩。マギーのそれはしかし、ほんの少し灰色がかっている。「あなたは女とだけ寝るの?」
「状況次第ですね」
「つまらない答え」
「あなたを楽しませないといけないルールでも?」
「この家の中ではそれが唯一のルールよ」
大袈裟に鼻息をついて、その指先がリズムを取ってソファの革の上を滑る。
広い室内のどこかで、クラリネットの奏でる陽気なブルースがごく小さな音量で流れている。ちなみに昼間に大音量でかかっていたのはルチア・ポップの「牧 人の王」だ。そのまた前は、愚にもつかない流行りのダンスミュージック。そのどれもが彼女の好みなのか、それともいずれもそうではないのかは分からなかった。確かめるつもりも無い。
「ボディガードなんて」
唇の端を歪ませてグラスの氷を鳴らし、「みんなダークスーツ着て筋骨隆々のタフガイ気取りで女心に疎くてちょいと脛に傷持つ身で、だけど実はイイ男って、そんなものだと思ってたのに」私の顔を覗き込む。
私は視線を落とす。いつものブラックジーンズに普段着のカットソー、くたびれた傷だらけのエンジニアブーツ。彼女の期待に全くもって添えなかったとしても、そこまでは私の責任じゃない。
「そう言えば、あなたのそれ。どこかで見たと思ってたけど」
彼女の視線が私の左の薬指を指している。
「サラもまあ、何だってあなたみたいなのを選んだのかしらね」
「みたいなの?」
「ああ、あなたが黒人でゲイでしかも女だからって意味じゃないのよ」
綿菓子のようなブロンドを持った女主人は、私が思わず声をたてて笑いそうになったのに気づいたようだった。そしてそれがよほど気に喰わなかったらしい。
「怒ることないじゃない」
「あなたはそんなことを気にするタイプじゃないと思ってましたが」
「お生憎様ね。あたしの一族はディープサウスの出なの。一族郎党して支持政党は共和党だし、ネオコンの連中がテレビで喋れば拍手喝采するわよ。そうね、ついでに言うとあたしの父親ときたらカトリックの司祭の息子だったわ」
ブリーフケースのジッパーを閉めながら腕時計を盗み見る。午前二時にあと五分というところ。その隣にグラスがひょいと置かれた。中身は当然のように空だ。
「ブライアント家は西海岸きっての跳ねっ返り集団よ」
ふん、と笑って、「あそこの遺伝子はね、人類でいちばん優美な魂と最も唾棄すべき悪癖がごたまぜになってできあがってるの。そういう意味じゃあたしの姉さんは随分と貢献したはずよ。あの不信心な連中に、たとえわずかだとしても人間らしい礼儀作法を叩き込んだんだから」
「礼儀作法ね」
「少なくとも、サラがまともに育ったのはあたしが面倒みたげたから。ちょっとだけ口が悪くてほんの少しだけ気難しいところがあるとしても、まあそれはあの悪魔憑きみたいな男のせいだから許してあげて頂戴」
「彼女の父親?」
「そう」
「じゃ、私はあなたに感謝すべきなのかな」
そうよ、と暗くしゃがれた笑い声をたてる。「優しい子なのよ」
「知ってます」
「ほんとに分かってる?」
「ええ」
「じゃあ彼女と切れてくれるかしら?」
目の前でちいさな氷山の崩れるかすかな音。
彼女と再び目が合う。
「それはできません」
「何でよ」
「あなたには関わりのないことですから」
マギーの眉が跳ね上がる。ほぼ予想通りのタイミングで。
「この際だから言っておくわ」
「どうぞ」
「あなたについての噂はロクなものじゃないわ。この界隈じゃ色々なヨタ話が耳に入ってくるものだけど、あなたに関してのはどれも最悪。とりわけあたしが気に入らないのは、…あの子の父親の話は知っているわね?」
私は答えない。けれど彼女は別の理解をしたようだった。
「彼と繋がりがあるような人間を、いったいどうしてあの子は傍に置きたがるのかしら?」
「随分と詳しいんですね」
「あの子のことが心配なの。これ以上妙な騒ぎに巻き込まれるようなことだけは許さないわ」
彼女の呂律は少しだけ怪しくなっていた。けれどその瞳は先程までと寸分変わらず、醒めた色を湛えている。
「やっぱり分かってないでしょ」
「分かってますよ」
「あなたも相当な強情っぱりみたいね」
「も?」
「あの子もそう。こうとなったらテコでも他人の意見なんか聞きやしない。例えそれがあたしの言うことでもね。大事な姪っ子だけど時には呆れることもあるわってこと。ああ、あなたには余計な話だったかしら」
いいえ、と答えた私の前で、年齢相応の皺を少しだけ刻んだ口元が薄く歪む。
新しい玩具を与えられた子供の顔だった。
「まだ時間はたっぷりあるわ。あたしは敵が手強いほど燃えるの。覚悟しておくことね」



私は携帯を耳に当てたまま机の上の腕時計を見ている。蓄光式の小さな文字盤。窓はまだ暗い。もしかして朝は二度と来ないのかもと信じたくなるくらいに。
『まだ起きてたのね』
「肝心なことを聞くのを忘れてた。何て説明したの?」
『何ですって』
「私のこと。あなたのマギー叔母様にさ」
『あら。どうしたのよ』
「どうしてそこで鼻で笑うのか、理解に苦しむんだけど」
『ちゃんと恋人だって言ったわよ。あんたが心配しなくてもね』
「心配ね。なるほど。それは思いつかなかった」
『どっちにしても関係ないでしょ、あんたの仕事には』
「あなたにとってはね」
『何か言いたそうね』
「歓迎されざる客の気分って奴をあなたも味わってみたらいいのに」
『そう? 結構うまくやってるじゃない、あんた達』
「善処はしてる」
『たった一週間よ』
「永劫の長さね」
『せいぜい彼女とやり合ってて頂戴。退屈だけはしないから。そのうち私も参加させてもらうわよ』
「ああ、そうそう」
『なに?』
「彼女、あなたに男を紹介するって息まいてたよ。一応伝えたからね」
『有り難くって涙が出るわね』
「じゃ、おやすみ。サラ」
窓の外の世界はまだ闇だ。
彼女のことを考える。ごくたまにだけれども、何もかもが不安になる時がある。朝になれば何かが変わるなんて戯言を信じられる根拠は何もない。けれど、そうしていけない理由がどこにある?



確かに楽な仕事ではある。一ダースの大型犬の散歩よりもという意味で。
何人目かの来賓のスピーチが終わった時、私の大部分はその結論に落ち着きかけていた。講演会の後は、会場をウェスティン・セント・フランシスに移しての立食パーティが催されていた。
ホールは比較的こぢんまりとしていた。落とし気味の間接照明がシンプルな調度の上に淡い影を落としている。目の前にあるテーブルで、キュレーターと思しき中年女性が今後予定されているいくつかのグループ展について、隣の男に小声で説明している。ざわめきはさほど大きくはない。人々はごくゆったりと動き、 美味とアルコールと世間話への欲求を、そのいずれをも上品な遣り方で満たしつつあった。
警備会社の連中もそれなりに堅実な仕事ぶりを見せており、取り立てて問題はなかった。朝に簡単なブリーフィングをしただけの彼らが、私の存在については必要最低限の注意を払うに留めていてくれるのが有り難かった。
壁近くに陣取っている私の斜め前、数歩ほど離れた位置にマギーがいる。
アイスグレーのフォーマルドレス姿で、そつのない笑顔を周囲に振りまいている。彼女は随分と目立つ。人出はピークを越えて、既に落ち着きを見せ始めていた。帰り支度を始める客がちらほらと目につく。
そのブロンドが唐突に振り向いた。停滞なく私の姿を捕まえて、その目が少しだけ細くなる。
「その格好、なかなかサマになってるじゃない」
「御期待に添えましたか、少しは」
「ええ。少しはね。ところでご感想は?」
「そのドレスの?」
「あたしのスピーチのよ。悪くなかったでしょ」
「昨日の毒舌はどこに置いてきたんです」
「女ってのはこの年にもなると二枚も三枚も舌を生やしてるものなのよ」
その頭上越しに周囲を見回している私の視線に気づいたのか、マギーがほんの少しだけ肩をすくめた。
「今日はお蔭で良い夜だったわ。ああそう、あなたの報酬の話はしておいたかしら」
「まだ初日ですよ」
「少し待って。最後の主賓が帰るわ。彼を送ってからにしましょう」
ほどなくして戻ってきた彼女を伴い、会場を後にした。
往路と同じ、初老の運転手が先に立ってホテルの駐車場へと続く通用路を歩く。彼女も私もほとんど会話は交わさないままだった。ひっそりとした通路には屋外の空気が流れ込んでいるのか、彼女はしきりにファーコートの襟をすくめている。
目的の階層の駐車場に足を踏み入れた直後、その存在に気づいた。
明るい照明の下に誰かが立っている。コンクリートに囲まれただだっ広い空間の中、人影がこちらを振り向いた。白人の男。
軽く右手を伸ばすとマギーの足を停める。
気づかずに先頭を歩き続けていた運転手が男の傍らをすり抜けかけて、硬直したように動きを止めた。何事か話しかけられたのか、彼が慌ててこちらを振り向く。その表情が強ばっているのが見て取れた。
モフェットよ、と傍らで彼女が硬い声で囁く。言われずとも分かる。ひょろりとした中年男のシルエット。その右手に何かが見えた。
マギーに気づかれる前にハンドガンを静かに抜く。
運転手が転げるように戻ってきた。
「あの。奥様。あそこの紳士が」吃りながら、「奥様の車に近づくなと言って。何かを仕掛けたとかどうとか。一体何のことやら」
「彼は何て?」
「お。奥様と話しがしたいと」
運転手は口をつぐむと同時にだらだらと汗を流し始めた。その腕を掴むと耳打ちする。「あなたは夫人を連れてホテルに戻って下さい。急いで」
「嫌よ。あたしは行くわ」皆まで言う前に、憤然とその手を押しのけられた。「あんな男どうせ何もできやしないのよ」
「何を言ってるんです?」
「止めたって無駄よ」
「奥様。警察に電話をいたします」
「駄目よ」
「それが賢明ですね」
「ベネッサ。最初に契約したわよね。あたしの命令なのよ」
おろおろと私とマギーの顔を見比べている可哀想な運転手の人の好い顔に肩をすくめてみせた時、男がこちらにふらふらと近づいてくるのが見えた。
仕立ての良いスーツに、ハンサムだがどことなく気の弱そうな顔がその上に乗っかっている。男の右手に、黒いプラスティックでできた筒状のものがある。スタンガン。違う。何かのスイッチボックス。
照明が眩しいのかこちらを上目がちに伺っていたが、じきに車二台ほどの距離を置いて立ち止まる。
ハンドガンを構えた途端、男の目がはっきり分かるほどにまん丸になった。ほぼ同時に口も半開きになる。
間髪入れず、マギーが押し殺した声で囁く。
「銃もだめ」
「レディ。本気ですか?」
「駄目なものは駄目。だいたいあいつの目を見てごらんなさいよ。あたしを殺る気なんてさらさらないくせに」
突然、目の前の男が声を張り上げる。とんでもない大音声だった。
「何だ君は。どうして銃なんか持ってる? だいたい君は誰なんだね」
「ダグ、あなたこそこんなとこで何やってるのよ」
「君と話しがしたいんだよ。さんざん電話しただろ、それなのに」
「手紙見たわよ。ジョークの趣味まで悪くなったとは思ってたけど、ほんとにこんなことするなんて最低ね。マジで呆れたわ」
「言っておくけど、今の主導権は僕にあるぞ。これが何か分からないのか?」
良く通るテノールが朗々と宣言し、右手の得物をこちらに突き出す。神経質な指先がプラスティックの箱を握り締め、また離すのが見える。その指先が丁寧に整えられていることに、私は妙に感心する。
「どうせテレビのリモコンか何かでしょ」
「馬鹿、TNT爆弾の起爆装置だよ! 仕込み先はもちろん君の車だ。ここからなら全員が間違いなくあの世に行ける。だからさっさと君もそんな物騒なものは捨てたまえ。ほら、早く」
随分と礼儀正しい脅迫ではある。
微妙な沈黙が落ちる。相変わらずの距離を保ったまま、男がうろうろと辺りを見回し始める。
ホテルと駐車場を繋ぐ通路は深閑としていた。蛍光灯のぎらつく灯りが落とす影以外に周囲には誰もいない。しかし、そろそろ人が来てもいい頃だ。
無視したままの私に苛ついてきたのか、半白の頭が再び凄い勢いで振り向いて私を見、次にマギーを見る。
「レディ」
「何よ」
「このまま奴さんを武装解除するのは簡単ですが」
振り向かずに告げた。念のため、人差し指はトリガーガードに置いたままだ。「彼を逃がしてもいいんですか?」
返事はない。
「離婚申請を取り下げるつもりはないのか、マギー」
「嫌に決まってるでしょ」
「どちらにしても僕は喚問には応じないからな」
「お好きにしたら? そしたら後は法律があなたの尻を蹴ってくれるわよ」
「分かってないな。あの会場に仕掛けることもできたんだよ。明日からだってそうだ。これでも君の面子を考えてこうした手段を取ってるんだがね」
「あたしの面子なんて」彼女が吹き出した。「あなたに守ってもらうくらいなら犬にでも喰わせてしまった方がマシ」
「騒ぎにして欲しくないのはお互い様だろ。僕は君と二人だけで話がしたい。その機会さえも持たせてくれないのか?」
「お生憎様、あなたがその不細工な花火と心中したけりゃ好きになさい。あたしはもう消えるわ。じゃあね。バイバイ」
「おいおい。まさか逃げるつもりじゃ」
「あなたがそいつを押すより先に、この彼女があなたの可愛い人差し指をぶち抜くわよ。彼女の腕を甘くみないことね。それでもいいの?」
そんな芸当は頼まれても無理と言うものだ。
けれど、男にもその台詞をじっくり吟味するほどの余裕はないようだった。
「それで済むとでも?」
「ええそうよ。だってそれ、そこにあるだけなんでしょ。あたしはタクシーで帰る。あなたのちっぽけな面子のためにあたしのキャデラックをぺしゃんこにするなんて自虐的な遊びがしたければどうぞご勝手に」
モフェットが口を開きかけてまた閉じる。額に皺が寄り、顎が弛緩している。妙な表情だった。
「いいや」咳払いをしてから舌の先で唇を舐める。「別の場所にも仕掛けておいた」
彼は彼女を見、それから私を見て、また彼女を見る。
「へえ。どこよ?」
「僕の腹にも巻いてる」
私はマギーが本気で笑い出すのかと一瞬考える。こちらを見る直前に、彼女の目がちかりと光る。明らかにこの状況を面白がっている。
「嘘じゃない。撃ってみたまえ。途端にボン!だ」
今度はこちらを見ないまま、彼女が私に告げる。
「へたくそな嘘」
聞こえるように言ったのは明らかだった。男が苦虫を噛み潰したまま、左手でしずしずとジャケットの裾を捲り上げた。青いドレスシャツ。ベルトの少し上、そこだけややふくよかな腹の真上に、黒とブルーと灰色の何やら細長い物体がちらりと見えた。プラスティックでできた分厚い弾帯。のようなもの。
「何それ。腰痛対策のサポーター?」
いえ、と口を挟む。「本物ですね」
「マジ?!」
モフェットが頬の筋肉をわずかに緩める。なんて品の良い笑顔。
私はハンドガンを下げるとゆっくりとセフティをかけた。その一部始終をまじまじと見つめていた男の喉仏が動く。ジャケットの下のホルスターにそれを突っ込みながら、ついでに内ポケットにしまってあった物に軽く指先を触れた。
駐車場に突然甲高い音が鳴り響いた。マギーの白いキャデラックから。
モフェットが文字通り飛び上がる。一フィートほども。私の右隣にいた運転手が小さく叫ぶのが聞こえた。
彼がこちらを振り向くより早く、三歩で距離を詰め、その右腕を掴む。肘の関節を極めるとスイッチボックスを叩き落した。軽く足払いをかけてから、暴れ回る長い手足を地面に押さえ込む。
うるさく鳴り響く盗難警報機の音の中、男のジャケットに手を突っ込んで探ってみてから、私は思わず笑い出してしまった。そこにあった代物は予想通り、有名な通販ショップのダイエット器具だった。



「と、いう訳なんだけど」
『呆れた話』
「簡潔な感想ね」
『まあ誰にも怪我がなくて何よりだったわ。それで彼は。どうしたのよ』
「逃げたよ。というか、逃がした」
『何もせずに?』
「そ。何もせずに」
『マギーは』
「表沙汰になるのだけは御免ってことらしいね」
『…妙ね』
「とんだ茶番よ。それとも何。今時はああいう趣向の遊びが流行ってるの?」
『彼女がどう出るかしら。叔父さんはまだ何かしてくるかもね』
「ああ、次なんてある訳ないそうよ。マギーの言によると」
『どうして』
「赤っ恥かかされたのは彼の方だからじゃない? 金持ち連中ってのは考える事がよく分からないね。あなたには悪いけど」
『ダグ叔父さんは、何て言うかまあ変人の部類には入るけど、もう少しまともな人だと思ってたのに。とにかく、彼女のことは頼んだわね。私はしばらく顔を出せそうにないから』
「了解」
『ところで週末の予定は?』
「あると思う?」
『空けておいて。買い物に行くから』
「ルチェッティのブラウニーを奢ってくれるんだったら考えとくよ」



それからの三日間は何事もなく過ぎた。
マギーは変わらず精力的に社交に取り組み、全ての行事はつつがなく進行し、件のダグラス・モフェットは一度も姿を見せないばかりか電話の一つもかけてこなかった。彼女の予言通りに。
と、思っていた。
「電話? ああ、それなら一度だけあったわよ」
呑気な声が告げる。彼女の危機管理能力には何も期待しないことを学びつつあったとは言え、これには流石に驚いた。ホームバーのカウンターに所狭しと並んでいるアンティークのグラスを物色していた私の背後で、彼女がソファに沈み込む気配があった。
「いつ」
「今日のお昼かな」
「何故それを?」
「たいして面白い内容でもなかったから」
「彼は何と言ってるんです」
肩越しに見えた表情は、それでも三日前と比べれば随分と大人しいものになっていた。連日ぶっ続けで悪態をつくのにも飽きてきたと見える。凝ったカットのバカラに、適当に目についたグレンフィデックを適当に注ぐと彼女の前のテーブルに置く。それでも視線は動かない。
氷を要求しているのだろうかと私が危惧し始めた時、ようやく声がした。
「会いたいんですってよ」
「それで。どうするんですか」
 会うわ、と肩をすくめる。「いずれね」
「本気ですか?」
「悪い?」
ひとたび言葉が彼女の口をついて出ると、彼女の意志以外には大したものは何もこの世に存在しないかのように聞こえてくる。そしてこの点においてだけは、サラもその叔母も限りなく似た者同士だ。
「しかるべき筋で法的措置を取ることですね」
「それはさっきも聞いたわよ」
「私の友人にひとり優秀な男がいます。要人警護のプロです。明日にでも紹介しますよ」
「もう一週間たった?」
「ええ」
「あたしはいつも今日が人生最後の日だと思って生きてるけど、ここ数日はまた格別だったわね。あなたのお蔭で随分と楽しめたわ」
室内は間接照明の下で充分に明るかったが、ゆるく顔を覆った前髪のせいでその顔は見えない。続きを待ったが、彼女はまだ伸ばした自分の両足の先端を見つめている。
「疲れましたか」
「あまり喋りたくない時だってあるわよ」
彼女はふさぎ込んでいた。信じられないことに。「ちょっと来て。ここに座りなさい」
少しだけ冷えた室内に何かが軋む音だけが響く。私は天井を見る。この邸宅には入った事の無い部屋があと幾つあるのだろうかと考える。今は音楽はどこにもない。
ソファに腰を下ろした途端、無言でジャケットの袖を掴まれた。ぐいと引っぱられる。「馬鹿にしてるの?」
「いいえ」
「男に逃げられたことはある?」
どう答えたものか少し考えている間に、ソファがまた控えめな軋みをあげる。彼女は前を向いたままだ。けれどその右手はくしゃくしゃと私のジャケットを皺にして、しかも一向に離してくれる気配がない。
「前に話したでしょ。あたしと彼は正反対だって。でもあれは一つだけ嘘なの」
袖から少しずつ細い指先を剥がすのは至難の技だったけれど、最後の方でいきなりその掌から抵抗する力が消える。
「本当はね、離婚申請は取り下げるつもりだったのよ。あたしの方から」
「何故?」
「嫌われるのは大嫌いなの。でも優しくされるのはもっと嫌。みっともなくて舌を噛み切りたくなるから」
「みっともないのも悪くはないでしょう」
「同情されるのなんてまっぴら御免よ。大事なものを失くすのには慣れてるし、それに幸せをくれないのならキスなんかいらない」 少ししゃがれた声だった。
「幸せはいらないんじゃなかったんですか」
「時と場合によるわよそんなの」
「今がその時と場合?」
彼女は答えなかった。その右手は薄い色の前髪を弄んでいる。
そのままゆっくりと同じ手が動き、私の視界から彼女の目を隠す。ゆっくりと打つ鼓動三つほどの間、沈黙が落ちる。彼女がみじろぎし、わずかに空気が鳴った。
「…マギー?」
いきなり白い手が動いた。指の隙間から青い二つの目が面白そうにこちらを見ている。
「何。あたしが泣いてるかとでも思ったの」
「まさかとは思いましたけどね」
「期待を裏切って悪いわね。年寄りにはそんな可愛らしい真似はできないの」
口の端を歪め、彼女は肩をすくめる。そのまま手つかずのままだったグラスを取り上げた。
唐突に彼女が私の頬に空いた手を伸ばしてきた。そのまま子供じみた仕草でぺしぺしとそこをはたかれる。彼女の匂いは嫌いではない。不意にそれを自覚する。
「ところで」
「え」
「何か食べるものは?」
「呑気なこと言ってくれるわね」
溜め息と一緒に手が引っ込められた。「いいわ、誰かに食事を用意させる。あたしはなんだか眠たくなったから」
「ゆっくり眠ることですね」隣を振り向いて告げてから、慌てて付け足した。「ここじゃなく、向こうのベッドで」
「いてくれないの?」
「隣にいます。何かあったらすぐ分かります」
夜明け間近の邸内は嘘のように静まり返っていた。使用人達もとっくの昔に深い眠りについている筈だ。
立ちあがった私の背中に声が降ってくる。「そうだ。ねえベネッサ」
彼女は相変わらずソファに陣取ったまま、片手を伸ばしてサイドテーブルのランプを調節しているところだった。
「あなた、あたしの専属で契約をするつもりはない? あなたの言い値でいいわ」
「きっと無駄金になるでしょうね。それは」
「お金なんて」
鼻で笑うと片目で振り向いた。「使わなければゴミ箱の中の紙屑と一緒だわ。あたしとあたしの一族はどういう訳だか生まれついてのアメリカきってのゴミ屋敷の住人なの、知らなきゃ教えてあげるけど」
「私はいつでもあなたの所に来ます。サラがそうしろと言えば」
瞬きほどの沈黙が落ちた。マギーが低く笑う。
「あなたはいい子だわ。頭にくるぐらいにね」
華奢な指先がスイッチのひとつをひねり、彼女も立ち上がる。部屋に薄闇が広がった。「おやすみ、ベネッサ」


携帯を耳に当てたまま見上げると、ビルの谷間から溢れる冬の陽光が目を刺した。雑踏のざわめきで彼女の声が遠い。
『どうかした?』
「今、あの二人が会ってるところ。急に彼女が外出したから、ちょっと心配になって尾けてきたの。そしたら」
『…本気? 一体どうなってるの』
「つい今しがたモフェットが来たわ。ああ、ここ外なんだけど。ハイアットのど真ん前」
『何の話をしてるのよ?』
「さあ。最初はマギーが彼の襟首掴んで怒鳴ってたけど、今は何だか普通に話してる。明日の新聞の見出しの心配はしなくてよさそうね」
『大丈夫かしら?』
バスが排気ガスをまき散らしながら傍らを横切った。さっきからわずかなノイズが通話の邪魔をしている。
『とにかく、ベネッサ、あんたはもうしばらく見ててくれる? ああ、午後には戻ってくるかと思ったのに』
「独り寝が続いて少しは寂しくなった?」
『馬鹿なこと言わずに見張ってて』
携帯を右手に持ち直した途端、背後の大通りで盛大なスキール音が響き渡った。
肩越しに振り向くと、黒いクーペが見えた。
対向車線のど真ん中でアイドリングしている。傷だらけのグリルにマスタングのエンブレム。四面全てのスモークガラスで運転席が見えない。その傍らをクラクションを鳴らしつつ、数台の車が無理矢理それをかすめていく。雑踏の中から通行人のものらしい誰かの罵声。
『…ベネッサ?』
「ああ、ごめん」
『そういえば伝え忘れたことがあるのよ。…聞いてる?』
ふと思い出した。朝にマギーの屋敷を出る際、通りの向こうに似たようなシルエットの黒いクーペが停まっていたような気がする。よく思い出せない。近隣の所有する車はあらかた確認済みだったから、見慣れないその車にもう少し注意を払うべきだった。
「ちょっと面倒事が起きた。あなたの心配が当たったかも」
『え?』
「悪いけど。後でまたかけ直すから」
『大丈夫なの。ねえちょっと』
遠い虚空のどこかでサラがまだ何か言いかけていたが、皆まで聞かずに携帯の蓋を閉じた。視線だけでマギーを探す。
二人はまだ舗道の上にいた。モフェットとまだ何か口論している。車三台分ほどの距離からこちらをねめつけている黒クーペの見えない視線の先に二人がいる。彼らはまるで気づいていない。奴が見ているのは彼らのうちのどちらかだ。間違いなく。
静止したままのマスタングを横目で睨みながら、できるだけ静かに彼らの近くまで戻る。
声をかけると、マギーがぎくりとした様子で振り返った。少し遅れて私に気づいたモフェットが目を見開く。
「ベネッサ、あなたどうしてここにいるのよ?」
「一つだけ聞いても?」
「ああ、ええと。後にしてくれないかしら? 見ての通りでちょっとした取り込み中なの」
「あなた達の知り合いの中に、あそこの黒いマスタングみたいなのはいる?」
「はあ?」
「あの車かね?あんな下品な奴は知らん。ていうか君ね、どうしてここが」
「ならいいわ」
背後のエンジン音が一気に膨れ上がり、凶悪な唸りをたて始めた。分離帯を乗り越えてこちらに突進してくる。
「走って!」
声をかけざま、ちょっと何なのよ、と喚く彼女を無視して男とマギーの二の腕を引っ掴むと舗道を駆け出す。直後に背中で胸の悪くなる金属音が破裂した。どしん、という振動。誰かの甲高い悲鳴。

二人をまとめてデュランゴの後部シートに放り込むと、運転席のドアに飛びついてキーを回す。一瞬遅れて息を吹き返したデュランゴのギアをリバースにぶち込み、一気にアクセルを踏み込んだ。
フロントガラスの目の前の光景が遠ざかる中、ダストボックスの中身がぶちまけられたアスファルトの上を、素早い動きでマスタングがこちらへ向きを変えてくるのが見えた。
「どういうこと? ちょっと待ってったら!」
「これは一体何のお遊びなんだね? 余興はもう終わったはずだろ」
「余興?」
「ベネッサ、今すぐ説明して頂戴」
そいつは私の台詞だ。
背後を振り返りながら思い切りハンドルを切った。強引なバックターンのお蔭でデュランゴの鼻先が街路樹の幹を掠め、喚いていたマギーとモフェットがほぼ同時に喉を詰まらせる。
その直後、デュランゴがさっきまでいた位置にクーペが突っ込んできた。
テクニックも糞もないその明らさまな意図だけは見ずとも分かる。本気でぶつける気だ。首筋の毛がちりちりと逆立っていく。車に戻ったのは間違いだったかも。ほんの一瞬だけ臍を噛む。
「あなた、あたしたちまで殺す気?」
「レディ」
「何よ」
「今度こそ正直に答えて。何か心当たりは?」
「どれの?」
「後ろのアレですよ! どうみたってあなた達が狙われてますよ」
「そんなもの」
揺れる車内で思い切りぶつけたらしい。腕をさすっていたマギーが鼻を鳴らす。「脅迫状とかってことなら知らないわ。今までだって山ほど届いてるんだから、どれがどれかなんていちいち覚えてないわよ」
「おいおいハニー、覚えててくれよ」
リアガラス越しに背後を振り返っていたモフェットが息を飲む。「うわ、あいつ、凄い勢いでついてきてるぞ」
「次のグループ展のメインに据えてる画家かしら? 最近、彼、反米的なテーマを取り上げてるせいで騒動が耐えないのよ。あたしが彼女のパトロンしてるからきっとその腹いせかも。待って、そういや昨日も何だか届いてわね」
「…昨日?」
「新聞の活字を貼付けたブサイクな手紙よ。すぐにゴミ箱へ捨てちゃったけど。でもあんなのはったりに決まってるじゃない」
「それだ!」
モフェットが引き攣った声をあげ、マギーが短い笑い声をたてた。すぐにそれがぴたりと止まる。「ちょっと待ってよ、嘘でしょ?」
「とにかく警察に連絡を。それと今から奴を撒くからシートベルトも」
「また警察?! あなたってどうしてそう」
「死にたくなければ今すぐにどうぞ」
アクセルを一気に開けた。二人がほぼ同時にシートの上で硬直する。
「だいたい、ここどこ走ってるの。あなたどっちに向かってるのよ?!」
「エンバーカデロ駅から西に一つ抜けた所。BARTに沿って南下中。ナビ見てください」
携帯に向かって必死で大声を出しているマギーの傍らで、モフェットはミミズクのように目を丸くして肩に食い込んだシートベルトを握り締めている。
「なあこれ、夕方のニュースで流れるかな?」
「ちょっと黙ってて」
「まずい。こりゃまずいぞ。テレビに映っちまったら社の連中になんて言い訳すればいいんだ?」
「だから黙っててったら」
傾いだバックミラーの中で、通話口を片手で押さえたマギーが目をつり上げる。直後にその視線がこちらとぶつかった。
「ベネッサ、早いとこどうにかしなさいよ」
「どうにかしようとしてるとこです」
「あなたプロでしょ?そうだ、銃持ってるんだったらタイヤ撃っちゃえばいいじゃないのよ」
今日は厄日だ。それだけは間違いない。
「じゃ、代わりにこれ運転してくれます?」
ミラーの中の私の表情に気づいたのか、マギーが眉をしかめて口をつぐむ手振りをした。
マスタングはびったりと背後に張り付いたままだ。とてもじゃないがデュランゴの足では逃げ切れない。後部座席にはお荷物が二人分。さて、どうするか。
幸いと言うべきか、マスタングの主は車をぶつけてこようとする以外、攻撃してくる気配は一切なかった。最初のあれで諦めないところはどうも素人くさいが、けれどこの執念深さは尋常ではない。
 四方八方の車にクラクションを鳴らされながら、赤に変わる直前の交差点に突っ込んだ。信号待ちの列をかすめて無理矢理左に折れ込む。二速から三速へ。喘息患者のような哀れな呻きを上げながら、デュランゴが加速する。
ほぼ同じ動きで密着してきたマスタングがエンジンを煽ってきた。横に並ばれかけた瞬間、のろのろとレーン変更中だった黄色いワーゲンに救われる。再びクラクションの嵐。
どこか遠くでサイレンの音がしていた。
進路変更を繰り返して少しずつ引き離しながら、再び海岸線へと進路を取る。80号の高架を抜けた辺りで路面の轍に取られてデュランゴが大きく傾いだ。つづけざまに通過したマスタングも激しいスキール音をたてる。けれど体勢は崩れない。そのまま迫ってくる。
「なんだか酔ってきた」
「やだ。こっちに吐かないでよ絶対に」
タコメーターは八十マイルをとっくに超えている。ミラーの中で距離を目測する。黒い車体は、遮るものがなくなった車線上を一気に距離を詰めてきている。そのグリルが次第に大きくなる。四十フィート。三十。二十。エンブレムがはっきりと見えた。いつのまにかサイレンの音も音量と数を増している。それなのにパトカーの姿はまだどこにもない。
がつん、と衝撃が走った。モフェットが悲鳴を上げる。マスタングが軽く鼻先をぶち当てたのだ。
「つかまって!」
右によれたデュランゴを必死で立て直す。バックミラーから再び黒い車体が消える。もう一度、今度は右後ろからの衝撃。
車体全体が冗談のようにきしみ、後頭部をしたたかシートに打ちつける。何か硬いものがアスファルトを擦る凄まじい音。リヤバンパーが外れたらしい。
前を走っていたバンが慌てて左車線へ逃げていく。ブレーキ音を響かせながら私はグローブボックスに必死で右手を伸ばす。銃はその中にホルスターごと放り込んでいる。届かない。
舌打ちして視線を戻した途端、フロントガラスの彼方で何かがちかりと路面で反射した。細長い蛇のような金属。スパイクベルト。
咄嗟にブレーキを踏みつけると右へ切り込んだ。胸の悪くなるタイヤの悲鳴。
暴れ出そうとするステアリングを押さえ込んで切り返す。視界の隅で車内の何かが宙に浮き、時間がコマ送りで流れ、嫌な角度で傾いたデュランゴの尻が嘘のように流れていく。停まらない。
半回転して突然開けた目の前にマスタングの顔面が迫っていた。
至近距離から黒い車体がまっすぐに突っ込んでくる。デュランゴの右のドアミラーを吹き飛ばし、投石機から放たれた石つぶてのように斜めの残像を残しながら、凄まじいスピードのまま走り抜ける。
直後、死角から派手なブレーキ音が響いた。わずかに遅れてどん、という地鳴りと何かを薙ぎ倒していく衝撃音。
デュランゴのボンネットが白煙を吐いている。オーバーブロー。速度ががくんと落ちてタイヤがようやく喚きまわるのを止める。 耳がきんきんと痛んでいるせいで、サイレンの音に気づくのがほんの少し遅れた。
警官とパトカーが冗談のようにわらわらと路肩から走り出てくる。バックミラーを覗くと、木立に突っ込んで横っ面のへしゃげたマスタングから男が這いずり出てきたところだった。あっというまに包囲され、慌ててもう一度地面に大の字になる。
「どうなってるの?」
マギーがシートベルトから半分ずり落ちた姿勢で、それでも凄い形相で腰のバックルを外そうと四苦八苦している。モフェットはまだ惚けたままだ。シートの上も二人の有様もひどいことになっているが、とりあえずは五体満足らしい。
「終わりましたよ」
「ほんとに本当? ああもうこれ、外れないわ」
「まだ動かないで」
随分と早い幕切れだ。どこかにほんの少し引っかかるものがある。痛む頭を振って、マギーに手を貸すために後ろを振り返る。
いきなり、ごんごんと運転席の窓を叩かれた。青い制服を着た髭面の中年警官が覗き込んでいる。
「ケガは?」
「皆、無事よ」背後のどこかで誰かがゲロを吐く音とマギーの罵り声が聞こえたけれど、気づかないふりをした。「何だってこんなに早く来れたの? ずっと移動してたのに」
「何だ、あんた達のツレが通報したんじゃないか。発信器仕込まれるなんて何やらかしたんだ。まあとにかく間に合って良かった」
「発信器?」
「ほらあんたも降りた降りた。免許も出して。調書取らなきゃならんからな」
それには答えずにデュランゴのドアを開ける。予想通り、というかそれ以上に相棒は哀れな姿になってしまっていた。タイヤの焦げた匂いが辺りに充満している。かがんでちらりと覗いたら左の後輪からは何とカンバス地がのぞいていた。最低。交換したのはつい最近だというのに。
灌木の茂みの中から道路へと、数人の警官に首根っこを掴まれた中年男が力の抜けた唸り声を上げて引きずられていく。
グレイのパーカーと派手なスニーカー。ガラスに突っ込んだらしい血まみれの顔面が彩りを添えている以外には、大して特徴もない肥満気味の白人だ。本当に素人なのだろうか。それとも。パトカーに押し込まれるまで男は結局、一度もこちらを見なかった。
ふと、妙な気配を感じて振り向く。だだっ広い四車線道路の向こう側で、見慣れたシルバーのコルベットがこちらを見ていた。
コンバーチブルの運転席から降りてきた女が、笑みを浮かべてこちらにちょっとだけ手を振る。薄い色彩の長い髪が日光を鈍く照り返している。サラ。
反射的に手を上げかけてから、私は立ち尽くす。
一体全体、何だって彼女がここに?



結局はお決まりの展開になった。
警察には最低限の調書を取られただけで済んだし、モフェット氏は午後遅くには無事に会社に戻り、サラと私はマギーにつかまって再び彼女の屋敷に連行される羽目になった。翌日の新聞には社会欄に、好意的な論調で大きな記事が組まれた。昨日の事件の方ではない。マギー・モフェットの美術館についてだ。
マスタング男については、ほんの数行ほどの記事が掲載されたに留まった。それも、悪質運転者が繁華街の目抜き通りでささいな接触事故および渋滞をひき起こしたという内容で。
それがどういう意味かなんてことまでは、最近の私はなるべく考えないようにしている。ブライアントと名のつく一族に関わるようになってからはさして珍しいことではなかったし、今回はそれにモフェット家の連中が関わっているのだから尚更だ。
マギーは翌朝も私たちを引き止めたが、サラはそれを断った。
丁重さにやや欠けるところがあったとしても、それは私の知ったことではないし、私がそこに居残っていたのは、ただ単にオーバーブローしたデュランゴがレッカーされていってしまったという事情のせいだ。彼にはしばしのお別れだ。もしかしたら永遠に。あのマスタング野郎の息の根を止めなかったことを今更な がら後悔する。
「私たち用事があるのよ、叔母さま」
車寄せでコルベットのサイドステップに足をかけたまま、サラは言い放った。「クリスマスの買い物もあるし。ここ一週間、叔母さまに彼女を取られっぱなしだったから」
サラが隣に立っている私にキスをする。マギーの眉がはね上がる。
「あなた達とは一度きちんと話をした方がよさそうね」
「今日はそんな気分じゃないの」
「あなたはいつだってそんな気分になりゃしないでしょ」
「愛してるわよ、今も昔も」
マギーは肩をすくめただけだ。サラがその頬にキスをして手を振る。
コルベットの助手席にすべり込む寸前、近寄ってきたマギーが軽く私の肩を抱いた。ついでに耳打ちされる。「あなたには期待してるわ。それを裏切らないで欲しいわね」
笑ってみせた私に向かって、マギーはとりあえず満足そうに頷いた。彼女の期待の本質がどこにあるのかは謎のままだったけれども。



つけ加えておくべきことがもう一つだけ。
忘れていることがあった。
「いつから?」
「何のことよ」
「GPS発信器」
「最初からよ。悪いけど」
四車線道路の交通量はさして多くもなかった。
少し濁った午後の光が、彼女の頬に斑に影を落としている。珍しくひと雨きそうな気配だが、コンパーチブルの助手席はヒーターがよく効いていた。
「そうじゃないかとは思った」
「紹介したのは私だし、万が一何かあったら心配だったからよ」
「本音は?」
「あんたの好きにさせておいたら、何をしでかすか分かったものじゃないわ」コルベットを信号待ちで停止させながら、サラが不意にその口を歪める。「実際、役に立ったじゃない?」
「警察沙汰になったのは予想外だったけどね」
「あんたとしたことが気づかないなんて。勘が鈍ったんじゃないの?呑気な生活のせいでね」
「で。そいつはどこにあるのよ」
「なに?」
「猫の鈴」
ああ、と首をすくめてからジーンズから片手で携帯を取り出す。前を向いたままでこちらに軽く振ってみせた。「ちゃんと持ってたのね。ちょっと意外だったわ」
私がどんな表情をしていたかは分からないけれど、彼女にすれば割合に面白い見物だったと見える。鼻で笑われた。
尻ポケットを探ると自分の携帯を取り出す。確かに同じストラップがぶら下がっている。黒革紐にシンプルなシルバーのプレート。長方形のそれは、そう言われてみるとやや不自然な厚みがある。
嫌味に輝くそれを指ではじく。
「あなたの実家は噂通りに兵器工場でもやってる訳?」
「魚心あれば水心って言うでしょ」
「こういうのを悪趣味っていうんだろうね。たぶん」
ああ、それなんだけど。
サラの台詞とともに車がゆっくりと発進する。「ついでに言うと音声も拾うのよね」
革シートの上にたっぷり数秒ほどの間、沈黙が落ちる。
「こいつが?」
「そうよ」
「嘘でしょ」
「どうしてそう思うのよ」
最悪。
こいつを貰ったのはいつからだったか。急速に頭が回転を始める。
「何かやましい事でもあるのかしら」
「まさか」
「じゃあそれ捨てる?」
「そういう問題じゃないよ」
そこまで言ってから、憮然としたままのサラが浮かべた表情にようやく気づいた。「…嘘なの?」
「冗談に決まってるじゃない」
頭上に風がゆるく渦を巻き、サラがいささか乱暴にアクセルを開ける。跳ねるようにエンジンが吹け上がり、背中がシートに押し付けられた。
「誰かに縛られる人生っていうのもきっと悪くないわよ。誰もいない世界で自由に暮らすよりはね」
「どこかで聞いた台詞だね」
「気のせいよ、何もかも」
「ねえ」
「何よ」
「幸福って何なのかな」
「今日はまた一段と寝ぼけたことを言うわね」
「あなたは幸せ?」
「ええ。あんな真夜中に叩き起こされて、ヨタ話を聞かされたりとかがなければね。なんだってあんたはいつも夜中に電話してくるのよ」
「じゃ、何で自分からかけてこないの?」
「鳴らないと、どこに置いたかすぐに分からなくなるのよ」
カウベルみたいに首からぶらさげておけばいいのにと思ったが、口に出すのはやめておいた。
そう言えばもう一つだけ、気になることがあった。
「ダグラス・モフェットが言ってたんだよね。余興は終わったのにって」
「…いつの話?」
「あの変態マスタングに追い回されてた時」
サラがしばらく考え込む。ややあってその指先が軽くシフトノブを叩いた。
「まんまとかつがれたわね。あの二人に」



「僕は、結構面白かったと思うんだけどな」
「ゲロさえなければね」
「彼女には新しいフロアマットを弁償することにしたよ。ああそう、マットのおまけで何故かダッジの新車がついてきたんでね。そいつもついでに」
「安い代償と思いなさいよ」
「でもお蔭でまだ首が痛くて、右腕に力が入らないぜ。献身的な労働の対価としてはひどすぎる結果だと思わないか」
「あたしはてっきりあのカーチェイスもあなたが仕掛けたロクでもないお遊びの続きかと思ってたわ。ほんとに警察がやって来るまではね」
「少し調べたんだが、君が援助してるあの絵描きだがね。彼も度々奴に嫌がらせを受けてたそうだ。名前を出したらすぐ分かったよ。でもその理由というのがねえ」
「理由?」
「奴は元々は彼の知人だそうだ。絵のモデルになったこともあるんだが、そいつを彼がとんでもなく素敵な作品に仕上げたせいで諍いを起こしたらしい」
「そりゃそうよ。彼はかつてのキュビズムの真髄を現代に体現できるアメリカでただ一人の画家だもの」
「他には特定の政治団体とか宗教絡みの繋がりはなかったよ。イカレちゃいるがさほど危険な男でもなさそうだ。君にもこれ以上害は及ばんだろう」
「何言ってるのよ。危うく死ぬところだったのよ。そのさほど危険でもないあんぽんたんのせいでね」
「一つ聞いていいかね」
「どうぞ」
「結局これって、ただの好奇心?」
「どれ?」
「この全部だよ」
「まあそんなとこね。まさかサラのお相手が来るとは思わなかったから。お蔭でなかなか楽しめたわ」
「で、ご感想は」
「思ったよりは身持ちが堅そうだからその点は安心したわよ。でも」
「割にいい子だったじゃないか。問題はないだろ」
「大有りよ。可愛い姪っ子が籠絡されてることには変わりないのよ」
「どうするんだね」
「決まってるでしょ。これから毎週末は二人をウチに呼ぶわ。連中が真人間になるまできっちりと監視してやるのよ」
「それはひどい」
「何ですって?」
「もう随分長いこと、あれはホームパーティという名のサバトの間違いかと思っていたよ」
「それで。あなたはどうするの」
「うん?」
「うんじゃないわよ。この際はっきりさせておこうじゃないの。あなた、申し立てには応じるつもりなの?」
「そうだね」
「え」
「君がそのつもりなら、僕はいつでもいいさ。おとなしく喚問にも出るよ」
「何でよ?!」
「これでもあれから色々反省したんだよ。そう、僕はいつでも君の好みの逆ばかりしてたからね。最後くらいはいい夫でいなきゃと思って」
「あなたってやっぱり最低」

2007.12.6
バーチャファイター ベネッサ&サラの番外編です。恋愛色はまぁ薄いです。サラの叔母さん(オリジナルキャラ)が出てきます。イメージとしてはCSI初期のマーグ・ヘルゲンバーガー。
4では汗臭そうなボロ戦闘服着ていた感のあるベネッサがサラに関わるようになってから段々と富裕階級になってきてなんかもうデスチャのサヴァイヴァー。
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